おやぢの部屋2
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HILARION/St Matthew Passion
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Soloists
Vladimir Fedoseyev/
The Moscow Synodao Choir(by Alexei Puzakov)
The Tchaikovsky Symphony Orchestra
MELODIYA/MEL CD 10 02366


2006年にロシアで作られた「マタイ受難曲」です。作曲者はジャケットでは「Metropolitan Hilarion Alefeyev」となっていますが、いったいどこが苗字なのでしょう。実は、この方は1966年に生まれたグリゴリー・アルフェエフという名前の人なのですが、作曲の勉強をした後聖職者となったという変わり種です。そこで、聖職者としての名前が「Hilarion(イラリオン)」、その役職が「Metropolitan(府主教)」なので、こんな英語表記になっています。日本語だと「イラリオン府主教(アルフェエフ)」となるのだそうです。「瀬戸内寂聴大僧正(俗名晴美)」みたいなものですね。
この「マタイ」は、2007年の初演の模様がライブ録音としてリリースされていますが、それを今回はスタジオ録音で再録したのでしょう。指揮者は初演の時と同じフェドセーエフです。
この不思議な人のイメージが全く湧かなかったので、まず、彼自身が指揮までやっているアルバム(PENTATONE)を聴いてみました。
そこでは、合唱曲だけでなく、器楽曲も聴くことが出来ました。それは「合奏協奏曲」という、まるでバロック時代の作品のようなタイトルの曲でしたが、それはまさにバロックの巨匠たちの作品の完璧なパクリでした。通奏低音にチェンバロまで加わっているのですから、すごいものです。
この「マタイ」は、やはりバッハあたりの同名曲を下敷きにしているのでしょう。テキストはもちろん新約聖書のマタイ福音書から取られていて、最後の晩餐から埋葬までが4つの部分に分かれています。とは言っても、それはロシア語に訳されたものです。ブックレットには対訳はありませんが、一応英語でそれぞれのナンバーのタイトルは書いてあるので、内容はなんとなく分かります。
やはり、福音史家は登場、それはバリトンが担当していますが、ほぼその歌手のソロで歌われます。それはほとんど抑揚のない、まるで「お経」のようなものでした。そして、合唱やアリアも歌われます。バックのオーケストラは弦楽器のみの編成です。先ほどのソロ・アルバムでは、管楽器や打楽器も入ったフル編成の曲もあったので、オーケストレーションが出来ないのではなく、この曲にふさわしい編成として弦楽合奏を選んだということなのでしょう。
確かに、このモノトーンのオーケストラは、いたずらに劇的な盛り上がりを作ることは決してなく、ひたすら深いところからの悲哀、慟哭といった情感を表現してくれているようです。ただ、サウンド的にはとても抑制されたものであるのに、それが奏でる音楽にはかなり俗っぽい和声が使われているのが気になります。あまりに見え透いたコード進行で、とても心地よく聴こえる半面、その先には意外性というものが全くありません。
ソプラノ、メゾ・ソプラノ、テノール、バスの4人のソリストが、この曲の4つの部分に分かれた中でそれぞれ1曲ずつ歌っている「アリア」が、まさにそんなスタイルを最大限に駆使したものでした。それらは、一度聴いただけで虜になってしまうようなシンプルな中にツボを押さえたメロディが、クリシェ・コードの上で歌われるという、それ自体はとても安らかな幸福感が味わえるものです。ですから、ソプラノが歌う第3部の中の「アリア」などは、こんな立派な声ではなく、もっとピュアな声で聴きたいものだと、贅沢な不満まで持ててしまいます。
合唱でも、ア・カペラで歌われるやはり第3部の中の「35番」などは、まさに完璧な美しさで迫ってくるものでした。
ところが、最後の「48番」で聴こえてきた合唱には、言葉を失いました。それはなんと、あの「カッチーニのアヴェ・マリア」ではありませんか。今では、この「迷作」はさるロシア人が20世紀に作曲したものであることは広く知られていますが、この、21世紀にやはりロシアの「自称作曲家」が作った2時間に及ぶ大曲は、それとまったく同じ精神を持っていたのでしょう。とんでもない駄作です。あんたは木でも切ってなさい(それは「与作」)。

CD Artwork © Metropolitan Hilarion (Alefeyev)

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# by jurassic_oyaji | 2017-04-29 21:27 | 合唱 | Comments(0)
数万円でしょうか
 定期演奏会から、5日が過ぎました。この5日という平日、いつもだととても短く感じるのですが、今週はなんだかいつまで経っても週末が来ない、という気がしてましたね。その5日の間、恒例の練習日がなかったのが、その原因です。もうすっかり火曜日には練習があるというのが、それこそ30年間続いていますから、それが体に染みついていて、それがないと1週間のリズムが狂ってしまうようになっているのでしょう。恐ろしいことですね。
 確かに、そんな1週間の気持ちの持ち方は、私の場合火曜日を頂点にして変わっているようです。いまだに、その火曜日の練習というのは、私にとっては特別の日、気軽に練習に参加する、なんてお気楽な気持ちには決してなれません。それは、まさに自分が試されるような日みたいに思えてしまうんですね。ですから、その日に向けて週の初めは、緊張の連続です。そして、当日音を出す前にはいつも緊張感は最高に達しています。それが終わった水曜日は、そんな緊張からすっかり解放された、週のなかで最も伸び伸びしていられる日になります。でも、それもつかの間、次第にまた次の火曜日に向けて緊張感が増していく、というサイクルの繰り返しです。
 そういう「苦しみ」から逃れられていた今週は、気持ちをガラリと変えて普段できないことをやってみました。それは、去年もやった竹藪の大掃除です。1年も経つと、立ち枯れになった竹がたくさん出てきます。それはたいていもう根っこも枯れているので、ちょっと動かすと簡単に倒れてしまいますから、それを引き抜いて、小枝を払った後チェーンソーでぶった切ります。そんなことを4本分ぐらいやると、もう汗びっしょり、それと、腰をかがめてチェーンソーで切るのが意外と疲れるので、1日の作業はそのぐらいでやめておいて残りは次の日に、といったユルい仕事ぶりです。
 そんなダラダラとしたやり方なので、倒して枝は払っても、まだ短くしていない竹の残骸が、まだ大量に竹藪内に横たわっています。それは、来週初めにはきちんと切断して、きれいに積んでおかないと、外部から来る人に恥ずかしいですね。
 そう、今年もどうやらいつもと同じような感じでどんどんタケノコが生えてきていますから、来週あたりには恒例の「タケノコ掘りたいかい?」を決行しようと、各方面との調整を行っているところです。日にちが決まったらメッセンジャーとか、掲示板で連絡する予定ですので、もうしばらくお待ちください。実は、定期演奏会の時に、全く思いがけない方から「タケノコ、掘りに行きたいんですけど」と言われてしまいました。しかもお二人。全く個人的な思いつきで、要は一人ではとても掘り切ることはできないのでお手伝いをしてもらうつもりでちょっと声をかけてみただけだったものが、今では結構幅広いところで認知されるようになってしまっていたんですね。本当に「ただ掘る」だけのことですが、興味のある方は是非ご参加ください。
 私は、すでに月曜日に誰よりも早く出始めのを掘ってきました。とても柔らかくて、おいしかったですね。今日も掘ってきましたが、もうちょっと大きくなっていましたよ。
 さっきのチェーンソーですが、さすがにエンジンのは大げさなので電動のを使っています。ただ、電源が必要なので、電工ドラムを使っているのですが、それでもとても広い竹藪はカバーできませんから、さらに長いケーブルをつないでいます。でも、やはり作業性は悪いですね。と思っていたら、なんと、最近は充電式のものもあるんですね。
 これだったら、もっと仕事も楽になります。俄然、欲しくなってきました。でも、1年のうちでほんの数日しか使わないものを買ってもしょうがないような気もしてしまいますね。ピッコロだったら毎日使うんですけど。
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# by jurassic_oyaji | 2017-04-28 21:36 | 禁断 | Comments(0)
RAVEL/Antar
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André Dussollier(Nar)
Isabelle Druet(MS)
Leonard Slatkin/
Orchestre National de Lyon
NAXOS/8.573448


スラトキンが国立リヨン管弦楽団と進めているラヴェルの管弦楽作品のシリーズの第5集には、なんと「世界初録音」の作品が収録されていました。ラヴェルの作品などはとても有名ですから、これまでに録音されていなかったものがまだあったことに、まず驚かされます。
ただ、その作品のタイトルが「アンタール」というのに、ちょっと引っかかりました。スラブ舞曲ではありません(それは「アンコール」・・・ニューフィル限定)。これは、リムスキー・コルサコフの「交響曲第2番」のサブタイトルとして、記憶にありました。実はこの曲は実際に演奏したことがあり、その楽譜の改訂についてもかなり詳しく調べたこともあったのです。その成果はこちらです。ついでにこちらの曲目解説も。
そこで改めてこのCDでのタイトルを見てみると、そこには「Antar - Incidental music after works by Rimsky-Korsakof」とあるではありませんか。つまり、これはまさにそのリムスキー・コルサコフの「アンタール」を元にした「劇音楽」だったのです。
1907年に、仲間内のコンサートで友人のピアニストと一緒に「アンタール」のスコアを初見で演奏して以来、この曲の魅力に惹かれたラヴェルは、1910年に、この曲を素材とした4幕の劇音楽を上演していたのですね。しかし、そのスコアは出版社の許に保存はされていましたが、出版されることはありませんでした。さらに、その時のテキストも残っていなかったので、スラトキンが2014年に初めて録音した際には、この音楽はコンサート用に再構築され、そこでは新たに作られたテキストが朗読されています。
なんたって「初録音」ですから、これは今までに誰も聴いたことのない音楽です。それを聴くにあたってまず参考にするのは、基本は英語で書かれたライナーノーツでしょうが、手っ取り早いのは日本の代理店が作った「帯解説」でしょう。これを日夜作成している方々は、まずはこのCDを聴き込み、そしてそのライナーノーツを隅々まで読み込んだ上で、初めて聴く人がその作品に容易にアクセスできるような情報を的確に作成する技を熟知しているはずですからね。それは、こういうものでした。
ところが、これは何とも不可解な文章でした。まずは緑線の「12世紀の物語」。確かに、ライナーノーツには「リムスキー・コルサコフは12世紀に書かれた物語に基づいて作曲」みたいな記述はありますが、同時にその年代はそれまで口伝として語られていたものが文字に定着された年代であり、「物語」自体は6世紀に実在した詩人の話であるということも書いてあります。ですからこれは「6世紀の物語」でなければいけません。
そして、もっとまずいのは、赤線の部分を読むと、まるでラヴェルがベルリオーズのコンセプトを借用したように思ってしまえること。それは完全な間違いです。ライナーノーツには確かにそのような記述はありますが、それはオリジナルのリムスキー・コルサコフの作品に関しての言及なんですからね。
問題なのは、これを読んでこの曲を聴いた人が、最初に聴こえてくるまぎれもないリムスキー・コルサコフの「アンタール」の第1楽章を、ラヴェルの作品、あるいは、ラヴェルが手を加えたものだと思ってしまうことです。ここには、リムスキー・コルサコフの「交響曲第2番『アンタール』」第2稿の全曲がそのまま(第4楽章の冒頭は第1楽章の引用なのでカット)と、同じ作曲家のオペラ「ムラダ」の一部、そして、やはり同じ作曲家のモティーフにラヴェルがオーケストレーションを施したものしか含まれてはいないのです。
残念なことに、この帯解説を書いた人は、まず正確な情報を伝える文章力を学ぶ必要があるようです。
そもそもこういうものをラヴェルの管弦楽作品として録音した時点で、NAXOSそのもののいい加減さも露わになっています。これだったら、ナレーションがかぶっていないオリジナルのリムスキー・コルサコフのCDを聴いた方がよっぽどマシなのでは。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.

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# by jurassic_oyaji | 2017-04-27 21:25 | オーケストラ | Comments(0)
ニューフィルがオーケストラ初体験
 先日のニューフィルの定期演奏会、演奏されたベートーヴェンの「運命」はなんと30年ぶりに演奏されたのだ、と、いろいろな資料には書いてありました。もっとも、その元ネタは私が書いたものなのですがね。その「30年」というのには、私の個人的な感傷も含まれているのだ、ということを知る人はほとんどいないはずです。
 実は、その30年前、1987年4月25日に行われた第8回定期演奏会というのは、私がニューフィルに入って初めて参加した定期演奏会なのでした。そのことはこちらにも書きましたが、この演奏会は、だから、私にとっては「入団30周年記念演奏会」という、とても感慨深いものになるはずでしたが、そんなことは考えている暇もなかったぐらい忙しい演奏会になってしまいました。なんせ、本番の休憩時間には、こんなことをやってましたからね。
 これは、前半の録音を聴いて入力オーバーになっていないかチェックしているところ、いつの間にか撮ってくれていた人がいて、送ってくれました。この時は、そんなところばっかり聴いていて、逆チャンネルだったことはそれほど気になりませんでしたね。
 で、結局30年前と同じ曲の同じパートを吹いたわけですが、その景色は全然違っていましたね。前回はなんせ入ったばかり、たしか、入団したのは3月ごろだったのですでにその時のパートは決まっていて、他の曲のパートはすべてその時にいた2人のメンバーに決まっていましたから、私のパートは必然的に「運命」のピッコロに決まってしまったのです。でも、その2人は本当によく練習を休みましたね。ですから、私はほとんどその人たちの代わりに練習は吹いていました。「魔笛」で1番を吹いていた人は、良くこんなんでオケがやれるな、というほどの怪しげな腕の持ち主でしたが、そんな人がいくら休んでも代わりに私が本番を吹く、などということはあり得ませんでしたね。今のニューフィルでは考えられないようなことが横行していたのです。
 私は、それまではこういう団体の経験は全くありませんでしたから、もうまわり中が全員敵のように思えてしまっていましたね。お互いが疑心暗鬼、そんな殺伐とした中での、30年前の「運命」でした。
 今回は、まわりの状況は一変していました。完全とは言えないまでも、ほとんどの団員とは「仲間」として心が通えるような間柄にはなれていますから、そこには確かな信頼感が生まれています。人付き合いの苦手な私でも、30年もかければとても居心地の良い場所が自然と出来ていたのではないでしょうか。
 嫌な思い出ですが、30年前は、上にいた人たちを追い越そうとして、常にもがいていたような気がします。その先に何があるかなんて、考えてもみませんでした。ところが、そのうちにいつかは「追う」側から「追われる」側になってしまうのではないか、と思うようになりました。そんな立ち位置になることなんて全く想定していませんでしたから、そのことに気づいたときには暗澹たる気持ちになったものです。
 でも、今では余裕をもって「追われる」身を楽しめるようにすらなっています。不遜な言い方ですが、もうここまで来たら、とことんこの立ち位置を楽しんでやろうと思っています。そして、くれぐれも「退き際」を間違えることがないようにするために思慮深くなることが、「30周年」以降の目標となっていくはずです。
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# by jurassic_oyaji | 2017-04-26 22:17 | 禁断 | Comments(0)
PUCCINI/Tosca
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Leontyne Price(Tosca)
Giuseppe di Stefano(Cavaradossi)
Giuseppe Taddei(Scarpia)
Herbert von Karajan/
Wiener Philharmoniker
DECCA/483 1486(BD-A)


1959年から1965年にかけて、カラヤンはウィーン・フィルを指揮してDECCAのためにオペラを含めた多くの録音を行いました。その中には、当時DECCAが業務提携を結んでいたアメリカのRCAの商品として販売されるアイテムがかなりありました。というか、カラヤンはそのような状況だったので、それまでずっと録音を行ってきたEMIと、すでに録音を始めていたDGを差し置いて、このレーベルとの録音契約を交わしたという事情もあるようですね。当時のDGはアメリカではそれほど販売実績がなかったので、RCAというアメリカのメジャー・レーベルとの関係には、彼のような「商売人」にとってはそそられるものがあったのでしょう。
この1962年に録音された「トスカ」も、そのように当初はRCAの「ソリア・シリーズ」という超豪華な装丁が売り物のパッケージとして販売されました。日本ビクターから発売された国内盤も金箔押しでそりゃあ豪華なパッケージでした。その翌年に録音された「カルメン」も、やはり「ソリア・シリーズ」で販売されています。その後、RCAとの提携が切れると、DECCAが提供した原盤(1/2インチ、38cm/secのマスターテープ)はほとんどが返還されますが、この「カルメン」だけはRCAの所有となっていて、それはこちらのように2008年に日本でSACD化されました。
そして、「トスカ」の方がやっと、こちらは24/96のBD-Aで、ハイレゾのパッケージが発売されました。「カルメン」のSACDには衝撃を受けましたから、それとほぼ同じ時期のこの「トスカ」に期待するのは当然のことです。
しかし、そのBD-Aから、前奏曲での金管楽器の彷徨が無残にも歪みまくった音で聴こえてきたとき、その期待はもろくも崩れ去りました。そこでは、天才エンジニア、ゴードン・パリーの作り出したあの豊饒なサウンドが、完膚なきまでに破壊されていたのです。その後、音楽が静かになってくると、かろうじてその繊細なテクスチャーは感じられるようになります。ソリストも同じこと、プライスやステファノの声ではそれほど目立たないものの、タッデイのバリトンでの歪みは寛容の限界をはるかに超えるものでした。
こうなることは、だいぶ前から予想はしていました。こちらに書いたように、1960年前後に録音されたマスターテープは、もはや現在では(というか、2009年の時点で)劣化が進んでいて使い物にならなくなっているのです。その頃録音されていたショルティの「指環」が今でもまともに聴けるのは、幸運にも1997年にデジタル・トランスファーされたものが残っていたからなのです(文中ではそのフォーマットが「24/48」となっていますが、現在販売されているハイレゾ・データは「24/44.1」のようです)。象徴的なのは、第2幕でトスカによって歌われる有名な「Vissi d'arte, vissi d'amore(歌に生き、恋に生き)」です。以前CD化されていたものと比較してみると、今回のBD-Aではそのアリアの8小節目「Con man furtiva」の頭で、明らかにテープをつないだ跡が聴こえます。おそらく、今回のトランスファーの時には、ここははがれてしまっていたのでしょう。
ただ、先ほどの「カルメン」では2008年にトランスファーが行われていても、そんな目立った歪みは感じられませんでした。保存や管理の状態で、個々の原盤の劣化の程度は異なっているのでしょうね。なんせ、この「トスカ」のマスターテープは何度も大西洋を横断していたのですから。
その時のプロデューサーのジョン・カルショーの著作によると、今のようにマルチトラックのレコーダーが使えなかった時代なので、カヴァラドッシが処刑される時の銃声などは、ダビングでの音の劣化を避けるために演奏しているのと同時に録音していたのだそうですが、タイミングが合わなくて何度もやり直したのだそうです。そんな苦労もすっかり水の泡ですね。
正直、マスターテープの劣化がこれほどのものだとは知りませんでした。貴重な「文化遺産」が、ダメになりかけています。もう手遅れかもしれません。

BD Artwork © Decca Music Group Limited

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# by jurassic_oyaji | 2017-04-25 21:14 | オペラ | Comments(0)