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武満徹エッセイ選
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小沼純一編
筑摩書房刊(ちくま学芸文庫)
ISBN978-4-480-09172-7


武満徹の文章は、時には彼自身の作り出す音楽よりも雄弁にさえ聞こえてきたものでした。新潮社から1971年に出版された彼の2つめの(ひとつめは、1964年の自費出版)エッセイ集では、そのタイトルの「音、沈黙と測りあえるほどに」自体が、すでに選び抜かれたことばによって音楽を超えるほどの繊細なメッセージを伝えていたのです。
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彼の生前に出版された6冊ほどのエッセイ集は、ですから、彼の音楽よりもさらに知的な好奇心をそそられるものとして、ファンの前には存在していたはずです。研ぎ澄まされた語り口をもつそれらの文章は、なんとエキサイティングに感じられたことでしょうか。そんな著作のエッセンスが、こうして文庫本となって手軽に再読出来るようになった時には、しかし、すでに読み手にとってはその好奇心の対象が微妙に変化していることにも気づかされます。それは全く、編者による意に沿わない抽出や、その第1エッセイ集の出版年の誤植(1991年となっています)が責を負うべきものではなく、ひとえに読み手、あるいは聴き手の成熟にともなう現象に違いありません。
そんな中で、彼が映画音楽について語っていることばに、なぜか惹かれるものがありました。
時に、無音のラッシュから、私に、音楽や響きが聴こえてくることがある。観る側の想像力に激しく迫ってくるような、濃い内容(コンテンツ)を秘めた豊かな映像(イメージ)に対して、さらに音楽で厚化粧をほどこすのは良いことではないだろう。観客のひとりひとりに、元々その映画に聴こえている純粋な響きを伝えるために、幾分それを扶(たす)けるものとして音楽を挿(い)れる。むしろ、私は、映画に音楽を付け加えるというより、映画から音を削るということの方を大事に考えている。

「私は、沈黙と測りあえるほどに強い、一つの音に至りたい」という境地に至った作曲家が、映画音楽について語る時、そこにはこれほどの決意が秘められることになるという事実には、感動すらおぼえます。同時にこのことばは、それが発せられてから30年以上を経た「現代」に於いては、なんとも空虚なものとして響いているという事実にも、驚きの念を隠すことは出来ません。そもそもこのことばは、ハリウッドの映画制作者に対して向けられたものでした。その時すでに、彼の地の映画産業の中では、音楽が独立した利益を生むものとしての認識が確固としたものとして存在していたことを忘れることは出来ません。すでにその時点で、作曲家のこのようなストイックな主張は、彼らには奇異なものとしか感じられはしなかったのです。「音楽を沢山挿れた方が、それだけ利益に結び付く機会も増す筈なのに」と。
「現代」に於いては、世界中でこの彼らの言い分は映像に対する音楽のあり方のスタンダードとなっています。卑近なところでは、今放送中のNHKの連続ドラマの音楽を聴きさえすれば、その実態は的確に把握できることでしょう。「篤姫」の音楽などは、ドラマ(もちろん「映画」と同義語であるという前提で)の「映像」が秘めた「内容と」はまるで無関係なところで響いている、とは感じられないでしょうか。そこにあるのは、まさにドラマとは無関係に成立している、一つの完結した音楽です。それは決してドラマを「扶ける」ことはなく、いたずらに全く「内容」とは無縁な陶酔感を呼ぶものでしかないのです。
もう少しドラマとしての成熟度が低い「だんだん」では、まさに音楽が「内容」を「扶ける」ことに、確実に寄与しています。そこでは、まるで音楽に合わせてドラマが展開しているような錯覚に陥ることも珍しくはありません。
悲しいことにこれが「現代」の映画音楽の実情、武満の思いが一顧だにされないほど、映画音楽は良心を失ってしまっているのでしょうか。そんなことで、ええがね(島根弁)。
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by jurassic_oyaji | 2008-11-14 21:56 | 書籍 | Comments(0)