おやぢの部屋2
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カラヤンがクラシックを殺した
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宮下誠著
光文社刊(光文社新書380)
ISBN978-4-334-03483-2


大昔の話ですが、音楽評論界の重鎮吉田秀和先生が「レコードコンサート」の解説をなさる、という場に居合わせたことがありました。そこで先生が用意されたレコードは、「レコードでなければなし得ないもの」というコンセプトに沿ったものでした。その中にあったものが、カラヤンが指揮をしたリヒャルト・シュトラウスの「ドン・キホーテ」だったのです。
「確かにこのレコードではウィンド・マシーンの迫力などは素晴らしいんだけれど、ぼくがここで驚いたのはそんなことではなく、カラヤンの演奏が、実演とはまったく違っている、ということなんですね。生の演奏会ではカラヤンはずいぶんテンポを動かしたりしてスリリングなことをやっているけれど、このレコードではとってもきっちりとした演奏をしている、そんなところが、レコードと生演奏との違いですね」
というご指摘、あくまで生演奏に接することが大切なのだと考えておられた先生ならではの、含蓄のあるコメントだったのではないでしょうか。1人の演奏家のスタイルを、録音(もちろん、ライブではない、きちんとセッションを組んでのもの)だけで判断することの愚かさを、この時先生に教えられたのです。
この本は、カラヤンの数多くの演奏に接した著者が、その演奏スタイルが今日のクラシック界に及ぼした影響について考察を試みたものです。タイトルといい帯のコピー(「タブーに挑戦」)といい、なんとも「挑戦的」ないでたちですね。しかし、どんなショッキングなことが書かれているのかと戦々恐々読み進んでみても、その内容はいたってまとも、「何を今さら」という、拍子抜けするほどの極めて常識的なものだったのには、軽い失望を禁じ得ませんでした。
カラヤンが作り出したあくまで滑らかで心地よい肌触りの音楽は、クラシック音楽から、なにか大切なものを失わせてしまった、というのが、著者の主張の根幹をなしているテーゼです。そして、それは単にカラヤンだけの問題ではなく、そのようなスタイルを育てた社会にも責任があるのだ、と、まさに壮大なスケールでこの指揮者に断罪の鉄槌を振り下ろしているのです。その際には、著者の専門分野である哲学的な思考も総動員され、隙のない理論武装を構築することに余念がありません。思わず無条件に納得させられたような錯覚に陥るのも、豊富な語彙と華麗な言い回しを駆使する著者の文学的な力量のなせる技なのでしょう。
著者はここで、レコーディングでもコンサートでもカラヤンの演奏の本質は変わらないというスタンスで、論を進めています。もちろん、しっかりその裏付けとしてのコンサート体験を語ることを忘れてはいませんが、一般大衆が接するのが主に録音だから、という点で、当然の成り行きと考えたのでしょうか、多くの資料は膨大な録音の中から採られています。しかし、吉田翁の教えを受けたものとしては、「なにかが違う」というささやきがどこからか聞こえてくるような気がしてしょうがありません。
確かに、カラヤンに象徴される世の中の流れによって、クラシック音楽がなんとも軟弱なものになってしまった点に関しては、著者同様の憂いをおぼえるのに吝かではありません。しかし、それに代わる「価値」として、クレンペラーやケーゲルを持ち出す手法を見ていると、この国に於けるクラシック音楽の別の負の側面への憂いも、ひしひしと感じないわけにはいきません。それは、未だにモーツァルトの中にまでひたすら「暗さ」を求めてやまない視点と同次元のもの、しかし、そのような観念的なイメージは、多くの知性によってすでに現実的なものではないことが明らかになってしまっています。そんなカビの生えたお題目への執着こそが「クラシックを殺す」ことになるのだ、ということに著者が気づきさえすれば、本当の意味での「タブー」が破られるのです(たぶん)。
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by jurassic_oyaji | 2008-11-28 19:10 | 書籍 | Comments(6)
Commented by 宮下誠 at 2008-12-13 02:35 x
『カラヤンがクラシックを殺した』の著者です。
とても詳細で精緻な議論ありがとうございました。
大変不躾なお願いなのですか、もし可能なら貴記事を拙ブログに転載させていただけないでしょうか?(もしかすると既に同様のコメントを書いたかもしれません。その際はお許し下さい)。議論を活性化させたく思っています。
例えば、ぼくが書いたことは間違いなく「賞味期限切れ」の「カビの生えたお題目」なのかどうか?ぼくにはそうは思われませんが、確信は持てないでいます。
無理な注文であればどうぞ無視して下さい。
失礼いたしました。
Commented by jurassic_oyaji at 2008-12-13 10:09
宮下様

コメントありがとうございました。
一度世に出たエントリーですから、どうぞご自由にお使い下さい。
「絶対領域」、ですか。深遠なタイトルですね。時々のぞかせていただきます。
Commented by 宮下誠 at 2008-12-13 23:22 x
前略

ご快諾ありがとうございます。

どうぞこれからも宜しくお願いいたします。

貴記事、大切に使わせていただきます。
Commented by gkrsnama at 2011-12-18 08:40 x
カラヤンの音楽が多くの場合すばらしいのはよくわかるということを前提に話いたします。

カラヤンの前任者をはじめ前の世代は、単に人生のあれこれから切り離された「音楽力学としての美」を追求していたわけではありません。彼らは個人的であろうと、状況にであろうと、自分が直面するものに音楽で切り結んでいたわけです。音楽に込められた個人的な感情を描きだせるとか、込められた理念を表出できるとか、歴史状況に対峙しようとするとかです。クラシック音楽とはもともとそういうものであったのです。

ところが、カラヤンが登場し、Popsと同様の手法で「売る」ことを心がけた結果、クラシック音楽からそういった余計な人生が切り捨てられてしまった。単に「過去の権威が確立済みの」「耳触りがいい」「高級な」「上流指向の」愛玩物になってしまった。(特に、西欧は階級社会ですので、所属階級によってどの文化を選択するかがくっきりとわけられます(*))

(*)「思想」にありましたっけ、フランスでの実証研究では、Jシュトラウスは下、ガーシュインは中、バッハは上を嗜好する強い傾向があるとなっておりました。あくまでクラシック音楽の中での選好ですけど。
Commented by gkrsnama at 2011-12-18 08:40 x
これは同時代のもう一方の帝王であるマイルスディビス(Jazz)と比較すればはっきりします。マイルスは死ぬまで、ひたすら前に向かおうとした。同時に黒人差別と戦っていたのです。
また、ロックのことはよく知りませんが、「ロックとともに年をとる」(新潮新書)ロックスター達は単に馬鹿さわぎをやっているわけではない。音楽に個人的な怨念を込め、聴衆はそれに共感をしているのだそうです。(これを読んで「完全に負けた」と思いましたね。)

音楽家としてカラヤンがきわめて優れていることはよくわかりますが、彼のせいでクラシック音楽が「博物館入り」してしまったのは間違いないでしょう。(今を生きる音楽として)殺したというのはどぎつい表現ながらあたっているでしょう。
Commented by gkrsnama at 2011-12-23 11:40 x
しかし考えてみれば、カラヤンは一人でクラシックを殺したわけではありません。それがクラシックを「現代の生きた音楽」でなくなってしまったのは時代のすう勢だったわけです。その意味で、より大きな責任は、ブーレーズ、シュトックハウゼン、ケージなんかのほうにあったんでしょう。彼らが主流になることで、クラシック音楽は聴くための音楽でなくなってしまった。(ケージなんか音符や演奏時間のない音楽まであるんですよ)

戦間期、耳のための音楽と主知主義が対立しながらも危ういバランスをとっていたのですが、言い換えればバルトークなどに代表される調性復活たい新ヴィーん楽派が争っていたのです。ところが戦後は後者だけが一方的に注目を浴びることになる。これがカラヤン現象の裏で起こっていたことです。

もし、バルトークのほうが勝っていたらと、残念に思っています。戦間期、もっとも注目される若手作曲家として登場したマルケヴィッチも戦後筆を折ってしまいました。彼も聞くための音楽を書いていましたのでね。