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Dietrich Fischer-Dieskau Sings Bach
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Dietrich Fischer-Dieskau(Bar)
HÄNSSLER/CD 94.201



歌曲に、オペラにと大活躍、ある意味一つの時代を築いたと言える、1925年生まれのバリトン歌手フィッシャー・ディースカウ、そんな彼がまだ20代から30代前半だった頃、1953年から1957年にかけての録音が、SWR(南西ドイツ放送)のアーカイヴからCD化されました。もちろん正価で買いましたよ(「ディスカウント」ではありません)。タイトルの通り、それは「バッハ」を歌っているものですが、全てが「大バッハ」ではなく、1曲だけ彼のおじいさん格のヨハン・クリストフ・バッハの作品が混ざっています。もっとも、それは聴いただけでは大バッハと比べての様式的な違和感は殆どありませんから、もしかしたら録音当時は大バッハの作品だと思われていたのかもしれませんね。半世紀前のバッハ、そしてバロック音楽への認識なんて、そんなものだったのでしょう。
そのヨハン・クリストフの作品は「Ach, dass ich Wassers gnug hätte in meinem Haupt」。弦楽器のいかにも重々しいイントロが、この当時の「バッハ」に対する畏敬の念をもろに呼び起こされるようで、聴く方もつい居住まいを正したくなるような気になってしまいます。そのバックで聞こえてくるチェンバロも、なんとも張りのある、まるでピアノのような音色を持ったモダン・チェンバロですから、本当に「くそまじめ」といった趣が募ります。この頃の音楽家には、ヒラヒラしたヒストリカル・チェンバロをバッハで使うなんて、思いも及ばなかったことなのでしょう。そもそも、当時は博物館以外にはそんな楽器は存在してはいませんでしたし。
そして、フィッシャー・ディースカウは、殆ど全身全霊をかけて「神聖」な歌を伝えようと、まるで修行僧のような面持ちでこの曲に向き合っているかのようです。つややかな音色でありながら、深刻この上ないこの人の芸風は、このような修練によって身に付いたものなのでしょうか。その歌は、「音楽」というよりは「お説教」のように聞こえます。
続く、ヨハン・セバスティアンの作品、前半には教会カンタータからのナンバーが並びます。最初は158番全曲(と言っても4曲しかありませんが)、終曲のコラールには、合唱も入っています。ここでももちろんフィッシャー・ディースカウの歌は生真面目そのもの、そしてそれに輪をかけて、この曲でのヴァイオリンのオブリガートが極めつけの格調の高さを演出してくれています。細かい音符が意味する装飾的なテイスト、それが教会やコンサートホールで実体となって聴衆に届けられるようになるには、まだもう少し時間が必要だったという、まさにアーカイヴならではの演奏です。
ところが、同じバッハでも、後半の「シュメッリ歌曲集」になった途端、フィッシャー・ディースカウの音楽はガラリと変わってしまいます。この「歌曲集」は、バッハ作品番号ではBWV439からBWV50769曲に相当する、通奏低音とソプラノ、またはバスのための小さな宗教曲が集められたものです。それらはカンタータのアリアのような大規模な構成を持つものではなく、ほんの内輪の楽しみ(いや、「お祈り」でしょうか)のために歌われるような素朴な曲たちです。中にはバッハが自分で作ったものもありますが、大半はそれまでにあったコラールのようなものに少し手を入れた程度、そこにはごく自然な暖かいメロディがあふれています。そんな曲ですから、フィッシャー・ディースカウは、時代様式などを飛び越えた、まさに現代人としての共感を、その曲の中にしっかり込めてくれました。例えば、ヨハネ受難曲などでお馴染みのキリストの十字架上の言葉をモチーフにした「Es ist vollbracht! Vergiss ja nicht diese WortBWV458でのしみじみとした歌は、この大歌手の心情がストレートに伝わってきて、心を打たれます。
ある時代の様式の中でしか伝わらない魅力と、時代に左右されない普遍性とを併せ持っていたものが、バッハの音楽であったことを教えられるCDです。
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by jurassic_oyaji | 2008-12-22 20:28 | 歌曲 | Comments(0)