おやぢの部屋2
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OHANA/Works for Harpsichord
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Elisabeth Chojnacha(Cem)
Arturo Tamayo/
Orchestre Philharmonique du Luxembourg
TIMPANI/IC1161



1913年に生まれ、1992年に亡くなったモーリス・オアナという往年のバンドマスターのような名前(それは、「スマイリー・オハラ」)を持つ人のように、殆ど知られていないフランスの作曲家の作品を集中してリリースしているのが、このレーベルです。全部で5枚ほど出ていますが、そのうちのチェンバロのための作品だけを集めたアルバムが再リリースされました。チェンバロ曲はもう1つ他のアルバムに入っているのですが、それでおそらくオアナのこの楽器のためのすべての作品が網羅されているのでしょう。このアルバムの中の「Miroir de Célestine(セレスティーヌの鏡)」という、1990年にホイナツカとシルヴィア・グァルダによって初演されたチェンバロと打楽器のための作品は、これが世界初録音となります。
アルバムタイトルは「ハープシコード(チェンバロ)のための作品集」となっていますが、これに関しては注釈が必要です。ここで使われている楽器は正確には「モダンチェンバロ」と呼ばれるべき楽器です。それは、19世紀末期に誕生した「新しい」、つまり、それまでの楽器の歴史の中では一度も登場したことのない楽器なのです。確かに「チェンバロ」という、その時点で完全に絶滅していた似たような楽器はありました。しかし「モダンチェンバロ」は、その「チェンバロ」と同じ発音原理は持っていても、素材は全く別のもの、したがって出てくる音も、奏でられる音楽も全く異なる別の楽器だったのです。
20世紀後半に、「チェンバロ」を正確に復元した楽器「ヒストリカルチェンバロ」が作られるようになり、その楽器が奏でていた音楽の真の姿が明らかになるに伴い、「モダンチェンバロ」は急速に忘れ去られていきます。これは、歴史の流れからは非常に興味深いことです。かつてチェンバロがピアノの発明によって衰退、絶滅の道をたどったように、歴史というものは普通「より発展」したものへと向かいがち、しかしここでは発展形であったはずのモダンチェンバロが、「未発展」のヒストリカルチェンバロによって駆逐されてしまったのですからね。
不幸なことにチェンバロは、ヴァイオリンやフルートのような他の楽器のように「モダン」と「ヒストリカル」(つまり「オリジナル楽器」)がそれぞれの専門の奏者によって棲み分けが図られるという事態にはなりませんでした。「モダン」は、チェンバロにはあるまじき異端の楽器として、ほぼ完璧に抹殺されてしまったのです。
バロックのレパートリーに関しては、それは全く正しい淘汰でした。大きな音を出すことのみが「発展」だと考えた先人の醜さは、先日のメンゲルベルクの「マタイ」を聴けば誰しも納得出来ることでしょう。しかし、チェンバロといえば「モダン」しかなかった100年の間に、この楽器のために作られた作品というものも、現実には存在しています。例えばプーランクの「田園のコンセール」などは、まさにオーケストラとも拮抗出来る力を持ったモダンチェンバロを想定して作られた作品ですから、これをヒストリカルチェンバロで演奏することは愚行以外の何者でもありません。
もちろん、オアナの作品も全てモダンチェンバロのために作られたものです。先ほどの「セレスティーナの鏡」などは、大音響の打楽器と対等に渡り合っている強靱なピアノ線の魅力が満載の曲、ヒストリカルではなんの価値も見いだせないことでしょう。しかし、まさに絶滅の危機に瀕している「モダン」の未来はもはや風前の灯火、オアナからも多くの作品を献呈されたホイナツカは、その最後の演奏家になってしまうのかもしれません。ただ、以前も書いたように彼女のリズム的なセンスはかなり危なっかしいものがあります。このアルバムの中でも「So Tango(これほどタンゴ)」などは悲惨そのもの、将来そんな彼女の演奏しか残らないのだとしたら、それはあまりにも残念なことです。

CD Artwork © Timpani
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by jurassic_oyaji | 2009-04-13 20:51 | 現代音楽 | Comments(0)