おやぢの部屋2
jurassic.exblog.jp
ブログトップ
漣流 日本のポップスの源流を作り出したヒットメーカー
c0039487_20353248.jpg






和田彰二著
音楽出版社刊(CDジャーナルムック)

ISBN978-4-86171-052-0



日本とは全く異なる文化の中から生まれた西洋音楽は、それが日本に紹介されたときには「洋楽」と呼ばれていました。それに対し、それまで我が国の中で伝統的に演奏されていた固有の音楽は「邦楽」と呼ばれて、その差別化がはかられていたのです。そんな「洋楽」を日本の中に取り入れるための先人の努力に関しては、外国から音楽教師を招聘したり、日本人が単身ヨーロッパへ留学してその地の音楽を吸収したりと、なみなみならないものがありました。もっとも、それは近代国家として生まれ変わることが最優先課題であった当時の日本の、いわば国を挙げてのプロジェクトでしたから、どこか教条的で押しつけがましい側面があったことは否めません。その影響は1世紀以上経った今でも残ったまま、「洋楽」の名残のクラシック音楽が一般国民の生活の中に溶けこむことはついにありませんでした。
現在では「洋楽」という言葉は、それが最初に用いられたときとは全く別の意味で使われるようになっています。いつの頃からか、「洋楽」、「邦楽」という分類は主にレコード業界で「外国の音楽」と「日本の音楽」という意味での分類として使われるようになり、それは次第に「外国のポップス」、そして「日本のポップス」という意味に変わってしまっていたのです。今の若いコが「『邦楽』は聴くけどぉ、『洋楽』はあんまりぃ」と言ったからといって、決して彼女らが「新内」や「常磐津」が好きなわけではありません。それは単に「ドリカム」は聴くけれど、「オアシス」はちょっと、といった程度の意味なのですからね。
そんな「洋楽」、つまり、外国のポップスがようやく日本に紹介されるようになったのは、今から半世紀ほど前、1960年頃のことでした。本来の「洋楽」を取り入れる際に明治政府が西洋のメロディに日本語の歌詞を付けて「唱歌」と定めたように、この時代でも、やはり外国語の歌を普及させるために歌詞を日本語に直すという手法を使ったことは注目に値します。そんな、外国の曲を日本語によって日本人がカバーするという、後世「カバー・ポップス」と呼ばれることになる一連の曲がテレビやラジオから流れ、ほとんどの日本人がそれを口ずさむという時代が、数年間にわたって続きます。その頃を生きた世代の人であれば、飯田久彦の「ルイジアナ・ママ」や、弘田三枝子の「ヴァケーション」などは、今でもそらで歌えることでしょう。
そんな、画期的なムーヴメントが、ほとんど1人の人間によって引き起こされたものであったのには、今さらながら驚きを隠せません。それが、この本によって多角的に紹介されている、漣健児(さざなみけんじ)という作詞家、というよりはプロデューサーです。彼が1960年から1963年にかけて手がけたそのようなカバー曲は、200曲を超えるというのですからすごいものです。
しかし、例えば「♪真っ赤なお鼻の/トナカイさんは」という、今でも多くの日本人に親しまれている訳詞を作った人物にとっては、そのペンネームである漣健児としての業績などはほんの一部のものに過ぎなかったことも、この本によって明らかになるのです。音楽出版社の経営者を父に持つ草野昌一という本名の音楽雑誌の編集者は、後にその音楽出版社のトップとして、日本に於ける著作権ビジネスの先駆けを担うことになりました。そんな草野の多方面にわたる活動を、当時の関係者(もちろん、カバー曲を歌ったアーティストも含まれます)の証言を元につぶさに綴った労作、そこから見えてくるものは、ポップスの世界でもクラシック同様ひたすら求められた本場物の模倣という、この国独自の文化の導入の手法です。それと同時に、クラシックなどは及びもつかない熾烈な音楽ビジネスの世界も、ここからは垣間見ることが出来ることでしょう。

Book Artwork © Ongaku shuppansha, Co., LTD.
[PR]
by jurassic_oyaji | 2009-05-06 20:37 | 書籍 | Comments(0)