おやぢの部屋2
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ゆめのよる
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波多野睦美(MS)
高橋悠治(Pf)
AVEX/AVCL-25475



このCDでの波多野さんの「肩書き」は「メゾソプラノ」、ムチなんかが好きなのでしょうね(それは「マゾソプラノ」)。しかし、そんな「クラシック」っぽい呼ばれ方など邪魔になってしまうほどに、彼女の声は、古楽から現代曲、さらにはポップスまでと幅広いレパートリーに対応できるものです。そういえば、かつてつのだ☆ひろ、ではなくて、つのだたかしのバンドと共演したアルバムでは「ボーカル」というクレジットになっていましたね。そう、彼女の声はまさにそんな風に呼ばれるのがもっとも適しているような、時代やジャンルには特定されないしなやかさを持っています。
今回のアルバムでは高橋悠治と共演しています。もちろん悠治の作品も歌っていますが、メインはモンポウやプーランク、ブーランジェ、そしてサティといった人たちの作ったフランス語の「歌曲」です。そこで歌われる歌たちは、彼女の手にかかるとおよそ「フランス歌曲」といったくくりでは語り得ないような不思議な肌合いを持つことになります。まず、テキストであるフランス語のディクションが、決してフランス語には聞こえないというほとんど「カタカナ」の世界であることが、かなり重要な意味を持ってきます。「カタカナ」で歌われた結果、「フランス歌曲」はもはやそのようなカテゴリーの持つ「瀟洒」や「粋」といった属性を剥奪され、限りなく「にほんごのうた」に近づくかに見えてきます。悠治の「むすびの歌」が、サティの「Daphénèo」とブーランジェの「Reflets」に挟まれたところで全く違和感を与えないのは、そのせいなのでしょう。悠治の曲をさらりと歌ってのけた中山千夏のイノセンスと同じ種類のものを、そこでは感じられるはずです。
この中では、悠治のソロも聴くことが出来ます。それがサティの「ジムノペディ」3曲です。あまり言及する人はいないかもしれませんが、今では「名曲」となって誰でも知っているこれらの曲を、ほとんど最初に日本の音楽シーンに紹介したのが、実は悠治だったのです。ただ、彼が我々の前に提示したサティの世界は、あくまで「ヴェクサシオン」などに代表されるような「前衛的」な姿でした。今のサティの聴かれ方からは想像も付かないことですが、悠治はあくまでもジョン・ケージのさきがけとしてサティをとらえ、それを聴衆の前に提示していたのです。
その「時代」、1976年にDENONに録音したサティのアルバムを聴くと、そこからはなんとも乾いた肌触りの「ジムノペディ」が聞こえてくるはずです。まるで機械のような正確なビートに乗って、メロディは決して歌われることはなく、単なる音の高低の連続のように響いています。それこそ「瀟洒」や「粋」が完璧に剥奪された、従って確実に「未来」の見える音楽が、そこにはあったのです。

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しかし、それから30年以上経った「未来」に彼自身が再び世に問うた「ジムノペディ」は、そんな「過去」の音楽とは全く異なる様相を呈していました。かつてあれほど厳格だった時間軸の呪縛は完膚無きまでに消え失せ、そこには左手のベースと右手の旋律とが全く別のクロックによって支配されているかのような不思議な流れがあったのです。いや、そういう印象はあくまで「過去」の彼のスタイルを基準にして述べているだけであって、ごく普通の言い方をすれば、極めて「ロマンティック」なスタイルに変わった、というだけのことなのですが。
これは、5年前のバッハの場合には見られなかったこと、それは、もはや「前衛」としてのサティなどどこにもなくなってしまったことの反映なのか、あるいはその5年の間の悠治の変化なのか、にわかには判断は出来ません。そもそもそんな答えを見つけたところでなにになるのか、という思いの方が、より切実なものとして存在しています。

CD Artwork © Avex Entertainment Inc., Nippon Columbia Co., Ltd.
by jurassic_oyaji | 2009-10-18 22:57 | 歌曲 | Comments(0)