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PURCELL/Dido and Aeneas
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Malena Ernman(Dido), Judith van Wanroij(Belinda)
Christopher Maltman(Aeneas), Hilary
Summers(Sorceress)
Deborah Warner(Dir)
William Christie/
Les Arts Florissants
FRA MUSICA/EDV 1610(DVD)




こちらで予言していたように、パーセルの記念年であった昨年に、こんな素晴らしいDVDがリリースされていました。2006年5月にウィーンで初演されたオペラ・コミークとネーデルランド・オペラとの共同プロダクションが、200812月にオペラ・コミークで上演された時に収録されたものです。
そもそも、この作品では作曲家の自筆稿というものは紛失、正確な楽器編成も分からないし、あったはずの「プロローグ」も消滅しています。ですから、上演、あるいはレコーディングに際しては、演奏者なり演出家が何らかの手を加える必要が出てきます。ここでの指揮者、クリスティも、今までにこの作品を何度となく手がけていますが、そのたびに新しいアイディアを盛り込んできています。今回は、演出家のデボラ・ワーナーとともに、斬新なプロローグを付け加えていましたね。それは、歌手ではなく俳優(かなり立派な胸を持つ女優)が、ジーンズに胸の大きく開いたT-シャツという「現代」の衣装でテッド・ヒューズ、T.S.エリオットやイェーツの「現代」の詩を朗読する、というものでした。
音楽が始まると、主人公であるカルタゴの女王や、その恋人のトロイの王子たちは、それらしい時代の衣装で登場、それに対して、現代の制服を着た小学生ぐらいの女の子が群衆として参加したり、4人のマッチョな芸人が、なんとサーカスもどきのロープ芸を披露するといったあたりが、やはりそのような「現代」と「古代」という多層世界の混在を意図したものなのでしょう。確かに、ある意味荒唐無稽なプロットを隠すのには、それは見事な効果を上げています。
そう、前回のCDの時も触れましたが、「自らの誇りを守るためには、死をもいとわない」というこの物語のモチーフが、どうにもリアリティに欠けるものですから、そのあたりを映像ではどのように扱っているのか確かめたい、というのが、このDVDを購入した最大の理由だったのですよ。「音」だけで聴いていると、その「死」に至るプロセスが、いかにも唐突、いつの間にかディドは死の床にいるといった印象がぬぐえなかったものですから。
さすがに映像では、そのあたりは充分な説得力をもっていました。こちらで見られるように、かつては美しすぎたエルンマンのディドが、寄る年波には勝てず、首のあたりに浮き出る「筋」が、年相応の醜さを見せつけていたり、ジュード・ロー似の精悍なマスクのモルトマンのエネアスが、頭髪だけは大幅に後退していたとしても、遠目には話の進行を妨げるようなことはありません。ピクニックのシーンでの二人の恥かしくなるほどのいちゃつきぶりなどは、後の破局には欠かせない伏線として設定されているのでしょう。そして、問題の諍いのシーン。一度はディドと別れて故郷に帰る決心をしたエネアスが、「やっぱり、残るよ」と言っても、ディドは「行ってしまえ!」と、頑として聞き入れません。その時のエルンマンの表情の厳しいこと。これだけの拒絶にあってしまえば、いかにオトコがなだめすかしてもその怒りが収まるわけはありません。それは、誇りとかプライドを傷つけられたための怒り、といったかっこいいものではなく、ほとんど「あてつけ」に近いヒステリックなもののように見えてしまいます。これは怖いですよ。あまりの剣幕にエネオスはすごすごと退場してしまいますが、その直後にディドは、こんな時のために肌身離さず持っていた毒薬をあおって、ほんとに死んでしまうのですからね。
一度でも裏切ったものには、たとえ死を賭しても制裁を加えたいというオンナの「あてつけ」、色香の衰えたエルンマンだからこそ、そんな恐ろしさが、見事に伝わってきたのでしょう。
「ジョモ」と「エネオス」は、めでたく統合を果たしたというのに。

DVD Artwork © François Roussillon et Associés
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by jurassic_oyaji | 2010-08-17 23:48 | オペラ | Comments(0)