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アーノンクールの「ロ短調ミサ」
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 先日、「最後の」来日を果たしたニコラウス・アーノンクールが、手兵ウィーン・コンツェントゥス・ムジクスと、アルノルト・シェーンベルク合唱団を率いてバッハの「ロ短調」を演奏した模様が、きのうBSで放送されていましたね。なんでも、今年の「NHK音楽祭」の一環なのだとか、そのおかげでこんな「貴重な」コンサートが居ながらにして味わえるのは、ラッキーです。
 とりあえず録画だけしておこうと思っていても、最初を聴き始めるとつい最後まで聴き続けてしまいたくなるような、それは突っ込みどころ満載の演奏でした。まずは、今までのアーノンクールからは考えられないような、実に穏やかな世界が広がっていたのが、とても意外、というか、ある意味当然のような気にさせられるものでした。なんと言ってもこれが日本で披露できる最後の機会になるわけですから、せめて最後だけでも「巨匠」としての印象を植え付けておきたいな、と考えたのかどうかは分かりませんが、彼の得意技であった突拍子もない演奏は影を潜めて、なんとも悠揚迫らぬ、最大公約数的な一般受けする音楽を提供してくれていたのには、変な言い方ですが「失望」していまいました。それでも、ソリストのレシュマンあたりには、彼本来の鋭角的なアーティキュレーションが徹底されていましたから、この穏やかさは決して彼の本意ではなかったのかもしれませんね。
 しかし、別の意味でまだまだチャレンジを忘れていないところも披露されていて、それはそれでなかなか微笑ましいものがありました。それは、合唱パートの扱いです。「Kyrie」の冒頭のトゥッティは、もちろん「合唱団」が歌っていたのですが、そのあとのフーガのテーマを、なんと、「ソリスト」たちが歌い始めたのですよ。もちろん、これは、今やバッハの声楽曲を演奏する際の主流を占めてしまった感のある、「原則1パート1人、場合によっては、要所をリピエーノで補強する」という方式を、ついにこの「古楽の祖師」もとり始めたということを明確に示すものでした。ただ、ここで起用されているソリストたちが、そのようなコンセプトに必ずしも合致した人選であったのか、という疑問は残ります。ソリストとしては優れていても(それが、バッハの様式にふさわしいかは、また別の問題です。たとえば、シャーデの「Benedictus」などは、バロックの様式とは別なところで訴えかけているとしか思えません)アンサンブルとしてきちんとやれるか、というのはまた別のスキルが必要になってくるのですからね。ここでも、この5人が作り出したものは、アンサンブルを語る以前のところで終わってしまっていました。
 大幅に譲歩して、このソリストたちの「合唱」を認めたとしても、今度はリピエーノとしての「本職」の合唱団との役割分担がなんとも不可解なものになってしまいます。こんな大人数、しかも、その透明とは言い難いキャラでは、到底良い結果など得られるわけがありません。
 オーケストラでは、かなり高齢の方がまだ演奏しているのを見ると、相応の歴史が感じられます。おそらく、創設以来の「伝統」を彼らはしっかり守り続けているのでしょう。日々新しいことが発見されているこのジャンルでは、そのような姿勢は極めて珍しいものに違いありません。ここでも、彼らがかたくなに守り続けている折衷的な様式感は、到底現代では通用しないもののように思われてなりません。なんと言っても、コンサートマスターあたりは楽器の構え方から奏法まで、まさに「モダン」そのものなのですからね。
 つまり、これがアーノンクールが唱えている「現代におけるバッハ演奏」なのでしょう。細かいことにこだわっていたのでは、バッハの崇高な精神は決して表現できないのかもしれませんね。やはり、こういう「巨匠」は日本人には尊敬いや、崇拝されることになっています。というか、日本のクラシック・ファンというのは、常にこういう崇拝の対象を探し求めているのでしょう。彼の作り出す音楽が、いかにつまらなくとも。
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by jurassic_oyaji | 2010-11-28 23:03 | 禁断 | Comments(0)