おやぢの部屋2
jurassic.exblog.jp
ブログトップ
1日目
 お励ましのメールやコメント、電話など、本当にありがとうございました。私からも、お亡くなりになった方々のご冥福をお祈りさせていただきます。また、避難所などでの不自由な生活を強いられている方々にも、私には何もできませんが、心から「がんばって!」と申し上げます。
 なんせ「1000年に1度」という大地震だったということですが、この1週間を振り返って極めて個人的なことでも、ひとまず事実関係などを記録しておこうと思います。こんなことがあったな、ぐらいに思えるような日がきっと来ることを信じつつ。
 
3月11日(金曜日)
 職場から自宅へ一旦戻り、被害状況を確認した後、また職場に行きました。消防車などが来れば、もしかしたらマンションの駐車場には入れなくなると思い、車は職場に置いて、徒歩で自宅へ向かいます。裏山の墓地の中を通って行けば、15分ぐらいで行けます。帰ると、合唱の練習に行っていた愚妻が玄関で不安げに立っていました。ちょうど練習中に揺れたそうで、メンバーはみんな抱き合っていて、指揮者はアップライトピアノが動かないように押さえていたそうです。なにはともあれ、食器棚が倒れて、あちこちに食器の破片が散らばっていますから、それを取り除かなければなりません。足を怪我したりしないように、もう土足で、かけらをひたすら集めます。にんにくのタレのようなもののビンが割れたのか、ものすごいにんにく臭が漂っています。冷蔵庫まで倒れていましたから、それも起こします。
 さらに、水も電気もガスも止まっていますから、夜に備えての懐中電灯の確認です。さいわい、大きな懐中電灯が3台見つかりましたし、電池もだいぶ前に買っておいたものが残っていました。
 夜になると、仕事に行っていた娘が帰ってきました。帰るなり、愚妻に抱きついて泣き出します。職場でもとても不安だったそうです。懐中電灯の光であり合わせのパンなどでの夕食の間も、なんだか食欲がありません。それよりも、一向に鎮まる気配のない余震には、ほとほと参ってしまいました。せっかく起こした家具も、また倒れてくるのでは、というほどの大きな揺れが、間断なく続きます。7階ですから、なおさら揺れは増幅されるのでしょうね(後で聞いたら、1階や2階の部屋では、全く何も倒れなかったところもあったそうです)。こんなところで眠れる訳がありません。「避難所」という言葉も頭に浮かびました。愚妻は「実家には泊まれないの?」と聞いてきます。実は、私は実家が職場、そこにはお客さんのための広い会館などがあるので、そこに泊めてもらうわけにはいかないか、というわけです。
 確かに、こんな余震ではとても自宅で寝るわけにはいきません。しかし、実家には電話も携帯も通じないので、都合を聞くわけにもいきません。仕方ありません。夜道を実家まで歩いていくしかありません。懐中電灯を持って、外に出ます。空を見ると、そこは満天の星、仙台市内でも、まわりが真っ暗だとこんなにたくさんの星が見えるんですね。その代わり、道路はたまに通る車のあかりしかありませんから、懐中電灯だけが頼りです。さっき通ってきたお墓の中の道に入ると、もう他に歩いている人もいませんから、不気味です。昔はよく歩いていましたが、久しぶりに通る道(いや、道なんてありません)なので、ついに、迷ってしまいましたよ。行き止まりになってしまったのですね。これには焦りました。どちらに向かっても、全く道がありません。務めて冷静に、元来た道を戻って、やっと自分がどこにいるかわかりました。
 実家に着いてみると、ろうそくの光の中で、なんだかたくさんの人がいるようでした。なんでも、お孫さんの友達がたくさん遊びに来ていて地震に遭い、そのまま帰れなくなって、今晩は、私があてにしていた会館に泊まるというのです。私も泊まらせてもらえないか、と言うと、同じ棟の和室なら空いている、ということで、そこにお願いすることにします。さっそく置いてあった車に乗って自宅に帰り、布団や食料、そして懐中電灯や予備の乾電池などを積み込んで、家族3人が一夜を明かすために実家へ向かいます。
 だだっ広い和室は、もちろん暖房などは入りません。貸してもらった布団も加えて、服を着たまま床に着きます。しかし、余震は相変わらずひっきりなしにやってきます。そのたびに、部屋全体は大きく揺れ、障子の桟が大きな音を立てて振動します。まさに「余震におびえて、眠れない一夜を過ごす」という、こういう時のニュースの常套句を地で行った体験でした。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2011-03-17 21:23 | 禁断 | Comments(0)