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音聖・筒美京平
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田中忠德著
東洋出版刊
ISBN978-4-8096-7650-5



情報伝達をインターネットにべったりと依存した今の時代ほど、多くの「書き手」が育っている時はありません。なにしろ、ちょっとキーボードやタッチパネルを操作するだけで、「書いた」言葉が全世界で誰にでも「読める」状態になってしまうのですからね。かつて学校の「作文」の時間に400字詰め原稿用紙の升目をHBの鉛筆で埋めることに多くの苦難を味わっていた人たちは、ネットの中ではいとも嬉々として「文章」を紡いでいます。おそらく、人類の歴史の中で、これほどまでにたくさんの「書き手」が存在したことなど、ついぞなかったことでしょう。
もちろん、それらの「文章」は、必ずしもそれぞれの「書き手」の思いを他人に伝えるに充分なだけのクオリティを持っているわけではありません。でも、それでいいんです。それは、別に他の人に届かなくとも、あるいは全く目に触れることすらなかったとしても、「書く」という行為だけで完結しているものなのですから。そう、ブログやらツイッター、あるいはフェイスブックのノートという形をとってネットに氾濫している「文章」のほとんどは、「文章」が本来「自分の意志を他人に伝える」という機能を持ったツールであったことにはほとんど拘泥しない、あるいは、そもそもその様な機能があったことすら念頭におかずに書かれたものなのですからね。
これは、ネットの文章はネットに接続できる環境さえあれば、基本的に全く自由に読むことが出来るという特性がもたらしたものなのでしょう。「タダ」なんですから、何を書こうが文句を言われる筋合いはないのですね。
その様な環境で育って、その様な他人には伝達できない文章を書くことに慣れてしまった「書き手」が、何を勘違いしたのかその文章を「出版」したりすると、困ったことになります。出版された書籍を読むには、ふつうはそれなりの対価が伴います。「タダ」で読むわけにはいかないのですね。当然のことながら、お金を出して「買った」人は、それに見合うだけの「文章」を期待することになるわけですから、それが全くそんな価値のないものだとしたら、それを書いた人は赤っ恥をかくことになってしまいます。
そんな悲惨な実例が、この本です。サブタイトル、「歌謡曲なくして 昭和を語ることなかれ」というのからして、ヘンですね。前半は平叙文なのに、後半は命令口調になっているのが、その原因、「命令」には相手があるものですが、この前半からはその相手の姿が見えてきません。「歌謡曲を聴かずして~」と、相手のアクションを入れなければ、相手は戸惑うばかりです。あるいは、下手に命令を気取らずに「歌謡曲なくして 昭和は語れず」と、全部平叙文にすれば、なんの問題もないものを。
文字通り「表紙」の文章がこのありさまですから、本文になったらもう大変です。著者が筒美京平の音楽を敬愛していることだけは良く分かります。しかし、いくら彼のことを「凄い」とか「スターだ」とか言ってみても、いったいどの辺が「凄い」のかが全く伝わってこないのですよ。そこで出てくるのが、「私は素人ですから」という、とんでもないセリフです。1冊税抜き1200円の本を出版した時点で、好むと好まざるに拘わらず、著者は読者に対して責任を持たなければならない「プロ」と捉えられてしまうのですから、そんな言い訳が通用するはずがありません。
「素人」の悲しさでしょうか、作曲家である筒美京平の魅力を語るはずのこの本には、作詞家たちの情報はいくらでもあるというのに、いったい筒美京平の「音楽」がどういうものなのかを的確に述べた部分は全く見あたりません。あろうことか、78ページには、とんでもないミスプリントが登場していますし。
筒美京平の作曲の秘密が包み隠さず書かれている本だと思って買ってしまったことが、そもそもの間違いでした。

Book Artwork © Toyo Shuppan Inc.
by jurassic_oyaji | 2011-12-14 22:53 | 書籍 | Comments(0)