おやぢの部屋2
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PÄRT/Piano Music
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Ralph van Raat(Pf)
JoAnn Falletta/
Netherlands Radio Chamber Philharmonic
NAXOS/8.572525




先日、ジェフスキの「不屈の民」で颯爽たる演奏を聴かせてくれたオランダの俊英ファン・ラートが、ペルトのピアノ作品を集めたアルバムを作りました。収録されているのは「作品1」と銘打たれた1958年の作品から、今回が世界初録音となる2006年の新作まで。これを聴いて、彼の半世紀にわたる作曲生活の変遷をたどろうということなのでしょうか。
ソロのピアノ曲はこれが初めての体験ですが、この中にある最も長い作品、2002年に作られた「ラメンターテ」という、ピアノと室内オーケストラのための曲は以前リュビーモフの演奏で聴いたことがありました。これは別におながか空いた時の掛け声(それは、「ラーメン、食べてぇ!」)ではなく、ロンドンの「テート・モダン」という現代美術館に展示されている、巨大な伝声管のような形をしたオブジェにインスパイアされて作ったという、なにやら死生観に関わるような重たいコンセプトを持った作品でしたね。確かに、初演から間もない2004年に録音されたこのECM盤では、そんな重たさを一身に抱えたような、「音楽」と言うよりはあたかも「宗教」、もっと言えば「洗脳」に近い程の怪しいオーラが感じられたものでした。なにしろ、リュビーモフのピアノが、とてもピアノとは思えないような不思議な響きだったものですから。
しかし、今回のファン・ラートの演奏では、そんなおどろおどろしいものが迫ってくるようなことは全くありませんでした。そこにはただ「音楽」だけが、あるがままの姿で横たわっていただけです。「Solitudine」という部分では、ECM盤ではそれこそ蛇に魔法をかけるための笛のように聴こえたものは、今回はしっかりフルート奏者とピッコロ奏者の姿が現実味を帯びて感じられましたから。
その曲の40年以上前に作られた「2つのソナチネ」や「パルティータ」は、ペルトを語る時には常に「今の作風とは全く異なるもの」として片づけられてしまうもののようでした。「帯」によれば、このような様式に行き詰まったペルトは「『西洋音楽の根底』へ回帰」することになったのだそうですね。
実際に聴いてみると、確かにショスタコーヴィチやバルトークの影響がもろに感じられるものではありました。特にアップテンポの楽章で、まるでジャズのアドリブ・プレイのような早弾きを見せるようなところは、「癒し系」と言われている今の彼の姿からはほど遠いものかもしれません。しかし、こういう要素はさっきの「ラメンターテ」の中にだって見いだすことは可能です。さらに、真ん中の緩やかな楽章などには、明らかに今のスタイルを予感させるものも聴き取ることが出来ます。そもそも、この時期の音楽は「きちんと歌える」ものなのですから、根本的には今のスタイルとそれほど変わったものだとは思えないのですね。
確かに外見は多少は変わってしまったかもしれませんが、彼自身はそんなに変わってはいないのでは、という思いに強く駆られてしまいます。おそらく、その様に感じられるのは、ペンデレツキでとてつもない「変節」を体験してしまったせいなのでしょう。彼はかつては、「絶対に歌えない」音楽を作っていたのですからね。それに比べれば、ペルトの変化などかわいいものです。
ですから、最新作の「アンナ・マリアのために」が、まるで1979年に大ヒットしたフランク・ミルズの「愛のオルゴール」そっくりの、それこそ「明快さ」(「帯」より)を持っていたとしても、なにも大騒ぎする必要はありません。これも、ペルトの振れ幅の範囲内のことなのでしょうからね。
我々はそう思ったとしても、彼自身は、やはり当事者ですからある程度の弁明は行っているようですね。自身の変化を率直に認め、それを公にする人は好感を持たれるものです。始末に負えないのは、明らかに変わってしまっているのに、それを認めようとしない人です。

CD Artwork © Naxos Rights International Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2011-12-22 23:14 | 現代音楽 | Comments(0)