クリストフ・ヴォルフ著
磯山雅訳
春秋社刊
ISBN978-4-393-93195-0バッハの「ロ短調」で、最近「新バッハ全集」の「改訂版」が新しく出たことは、
こちらでお伝えしてありました。スタディ・スコアが出版されたのが
2010年、その時点では楽譜店には
1954年に出版されたフリードリヒ・スメントの校訂による「旧版」もまだ置いてあったような記憶があります。品番が違っていても全く同じ装丁ですから、間違って「古い」方を買っていくお客さんがいないのか、心配になったものです。出版社(ベーレンライター)は、
2009年まで「旧版」の増刷を行っていましたから、それをまず売り切ってから「改訂版」という目論見だったのでしょうか。
この「改訂版」の校訂を行ったのは、ウーヴェ・ヴォルフという人です。この楽譜が出てすぐ、同じ「ヴォルフ」さんが書いたこんな本が出たので、なんとタイミングの良いこと、と思ってしまいました。なんでも、「改訂版」では新しい方法で他の人が書き込んだ部分を特定しているのだとか、そんなミステリーのようなことをご本人が語っているのかな、と、迷わず買ってみました。元の出版社もベーレンライターですし。
ところが、こちらは「クリストフ」という、別のヴォルフさんだったではありませんか。「バッハのロ短調」などというマニアックなフィールドに、ヴォルフさんが二人もかかわっていたなんて、なんと紛らわしいことでしょう(スペルはちがいます)。しかし、ライプツィヒ・バッハ・アルヒーフ所長という、バッハ研究の最先端にある人の「ロ短調」談義は、まさに最先端の情報に満ちたもので、とても興味深く読むことが出来ました。
先ほどの「ウーヴェ・ヴォルフ」さんも、もちろんここには登場します。その部分は、新バッハ全集として最初に校訂作業が行われたのがこの「ロ短調」だったというあたりからその後の経緯まで、なんとも波乱に満ちた読み物となっています。タイトルを付けるとすれば、「バッハ研究の陰に隠れた、ある校訂楽譜の末路」でしょうか。
スメントが校訂を行った「旧版」の画期的なところは、それまでの「旧バッハ全集」のようにこの曲を1つのものとしては扱わず、それぞれに作られた年代が異なる「
Missa」、「
Symbolum Nicenum」、「
Sanctus」、「
Osanna, Benedictus, Agnus Dei et Dona nobis
pacem」という4つの部分から成っているものだ、とみなした点でしょう。この「新説」は当時はセンセーショナルに受け取られました。たとえば
1961年に録音されたカール・リヒターの
LPボックスでは、この呼び名がタイトルとして大々的に表記され、もはや「ロ短調ミサ」という名称は時代遅れだということを強く印象づけていたものでした。

しかし、それから半世紀以上を経た現在では、このスメントの主張は全く顧みられなくなっていました。その後の詳細な資料の研究によって、そもそもそれぞれの部分の成立年代すら間違っていたことも明らかになりましたし。当然、「新バッハ全集」としては、さらに新しい校訂が必要になってくるのですが、それもままならないでいるうちに、他の出版社に先を越されてしまいます。今回の著者、クリストフ・ヴォルフによる
1997年のペータース版と、ジョシュア・リフキンによる
2006年の
ブライトコプフ版ですね。しかし、ベーレンライターが威信をかけてウーヴェ・ヴォルフに託した「新バッハ全集改訂版」は、「ここ数十年間に獲得された研究水準をはっきりと超えるもの」となったのです。今では、店頭からはスメントの「旧版」は姿を消しました。もうこんな所には
住めん、と。
作品の成り立ちから、その受容の歴史、さらには演奏する上で欠かすことの出来ない適切なアナリーゼと、これから「ロ短調」に何らかの形で関わろうとしている人にとっては、これはまさに必読書となるはずです。元の文章が堅苦しいのか、日本語訳が拙いのかは分かりませんが、文章があまりにもひどい「日本語」であることを除けば、これほど役に立つ本もありません。
Book Artwork © Shunjusha