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MOZART/GRAN PARTITA
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Vincent Genvrin, Yoann Tardivel Erchoff(Org)
HORTUS/HORTUS 071




モーツァルトの13の管楽器のためのセレナーデ(いわゆる「グラン・パルティータ」)を、オルガンで演奏しようという人が現れました。確かに、オルガンはパイプに空気を送って音を出すという、まぎれもない「管楽器」なのですから、そんなにヘンなことではないのかもしれません。というか、一瞬タイトルが「ORGAN PARTITA」に見えてしまったのは、なぜ?
1曲目の序奏あたりは、最も違和感なく管楽合奏がオルガンに置き換わった部分でしょうか。最初の堂々たる付点音符のアコードなどは、それこそバッハのような荘厳さで響き渡ります。もしかしたら、そのリズムがほんの少し「フランス風」に後の音符が短く演奏されていたために、そのように感じられたのかもしれません。その合間に繰り広げられるクラリネットのソロの部分は、やはりオルガンでもソリスティックに聴こえてきます(それ、素敵)。
しかし、主部のアレグロ・モルトに入ってからも、そんな重厚さを引っ張ってしまったあたりから、この演奏の悲劇が始まります。ファゴットの八分音符の刻みに乗って運ばれるこのテーマは、まさにモーツァルトならではの軽やかさをもったものなのですが、その重たいことと言ったら。まずは、リズムの八分音符。ペダルのストップなのでしょうが、立ち上がりが鈍いために拍の頭が決まらず、リズムになっていません。ですから、まるでお祭りのような華やかさを持つテーマは、なんとも居心地の悪い思いを強いられてしまっています。おそらく、編曲も担当したこのオルガニストは、オリジナルの声部をすべてオルガンに置き換えようとしたのでしょうが、管楽器の特性も知らずにやみくもにそんなことをやったとしても、決してモーツァルトの優雅さが再現されることはないのです。
3曲目のアダージョは、例のピーター・シェーファーの「アマデウス」で、サリエリがモーツァルトの才能を痛いほど思い知る、という設定の場面で流れていた曲でしたね。ちょっと聴いただけでは、シンプルに感じられる曲なのに、実際は多くの声部が入り組んだかなり複雑な作られ方をしています。ですから、ここではとても独りで演奏することは出来ないと、オルガニストをさらにもう1人使っています。つまり、低音のオスティナートやそれを彩るコードを一人が演奏して、そこに入ってくるソロのパートをもう一人が演奏するというわけですね。これも、やはりすべてのパートをきちんと演奏してやろうじゃないか、というオルガニストの姿勢が反映されたものなのでしょうが、その結果この伴奏部分は無制限に肥大してしまうことになりました。さらに、その上に、「アマデウス」では確か「天空からの音楽」と形容されたソロ・オーボエが、オルガンに置き換わってしまうとなんとも間抜けなものになってしまいます。基本的にオルガンではビブラートはかけられませんから(機械的に音を震わす機能はありますが、それは感情表現のビブラートとは似て非なるものです)、オリジナルでのオーボエのように表情豊かに歌うことなどできません。それは、いとも人為的な、まさに「天空」とはかけ離れた音楽だったのです。
この曲には、2つのメヌエット楽章があります。どちらも2つのトリオを持つ変化にとんだものですが、中でも4曲目の方はテーマもかわいらしく、愛すべき音楽です。それは、登場する楽器が次々と変わって音色の変化を楽しませてくれるという魅力も持っています。そこで、オルガニストはこの曲のフレーズごとにストップの組み合わせを変えるということで、その変化を出そうとしています。ところが、図体の大きい楽器の悲しさでしょうか、そのストップの切り替えごとに一息ずつの間が空いてしまうのですね。これも相当間抜け、かくして、この編曲からは、モーツァルトが持っていた軽やかさ、優雅さ、そして自然な流れが、すべて失われてしまいました。

CD Artwork © Hortus
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by jurassic_oyaji | 2012-07-04 20:25 | オルガン | Comments(0)