きのうの「おやぢ」では、極力あたりさわりのないことを書きましたが、今回のショルティの「指環」のニュー・リマスター・ボックスの発売によって明らかになったことは、かなり重大な意味を持つものなのではないでしょうか。それは、CD、さらにはBDがアルバム状に収納されているハードカバーの最後にあったDECCAのプロデューサーの、今回のリマスターについての詳細な記述です。そこには、普通はあまり公にはしないようなかなり具体的なマスタリングの作業の内容が書かれていたのですね。特に注目されたのは、もはや現時点(正確には、もう少し前、2009年の時点ですが、それについてはあとで触れます)では、1950年代から1960年代にかけて録音されたマスターテープは、最高の状態で保存してたにもかかわらず、もはやそこから新たに高音質のデジタル・マスターを作ることは不可能なまでに劣化が進んでいた、ということです。これは大変なことですね。まさに「文化遺産」とも言うべきオリジナルのマスターテープがそんな状態になる前に、しっかりハイレゾのPCM、あるいはDSDにトランスファーして保存しておいてもらいたいものです。
ですから、今回のリマスタリングに用いられたマスターは、そのマスターテープから今まで何度もトランスファーされたものの中から最良のものと判断された、かつて「ワルキューレ」でアシスタント・エンジニアとして参加していたジェイムズ・ロックが作った1997年のデジタル・テープだったのです。これは、その年にリリースされた「指環」の2度目のリマスタリングCDのマスターとして使われたものですね。
ロックは当時としては先見の明があって、普通のCDの規格である16bitではなく、24bitでトランスファーを行っていましたから、それは今回のリマスタリングにも充分なだけの「ダイナミック・レンジ」は確保できていました。ここで注意したいのは、この記述の中では「24bit」と書かれているだけで、サンプリング周波数に関してはどこにも具体的な数字は示されていないことです。現代のリマスタリングでは、それは最低でも96kHzでないと、CDはともかくSACDにするためには充分ではないのです。しかし、それが書かれていないということは、ロックのトランスファーでは48kHz、もしかしたらCDと同じ44.1kHzだったのかもしれないのですね。それを裏付けるように、このボックスの「目玉」として華々しく登場した、1枚に「指環」全曲が収まってしまうというBlu-ray Audioには、24bit/48kHzのLPCMデータが入っていたのです。
まあ、それはそれで、間違いなくCDを超える、かなりマスター・テープに近づいたと思われる音が聴けるので、そんなに問題ではありません。なにしろ、今となっては24/96のマスターを作るのは、もう不可能になっているのですからね。
しかし、この記述の中では、もう一つ驚くべき事実が暴露されていたのです。マスターテープが使い物にならないと判断された2009年に行われていたことは、「日本の会社」へ向けてのマスター作りだったというのです。その「会社」とははもちろん、その年に世界で初めてこの「指環」のSACDを制作したESOTERICのことですね。つまり、杉本一家さんがSACDへのマスタリングの際に用いたのは、この24bit/48kHzのマスターだったのですよ。もしかしたら、杉本さんの手元には、それがアップコンバートされた24bit/96kHzのものが届いていたのかもしれませんが、大元は24/48であったことには変わりはありません。これは、かなりヤバいことなのではないでしょうか。
ESOTERICのサイトでは、この「指環」のSACDについて、「今回のリマスタリングは、初のSACDハイブリッド化ということで、これまでのエソテリック企画同様、使用するオリジナル・マスターテープの選定から、最終的なDSDマスタリングの行程に至るまで、妥協を排した作業が行われました。」とありますよ。これを読めば、誰でも「オリジナル・マスターテープを使用した」と思うじゃないですか。私もずっとそう思っていました。他の事例もあるので、一連のESOTERICのSACDを作る際にはマスターテープなどは使われていないことはうすうす気がついてはいましたが、それを裏付ける証拠がここまではっきりしていたとは。見事に裏切られた思いです。