おやぢの部屋2
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SCHUBERT/Die schöne Müllerin
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里井宏次/
ザ・タロー・シンガーズ
EXTON/EXCL-00094



4月になりました。新しい年度の始まりということで、異動人事などもあり何かと落ち着かない部署もあることでしょう。故吉田秀和翁のご逝去に伴って空席となっていた水戸芸術館の館長のポストには、指揮者の小澤征爾翁が就いたそうですし、その吉田翁、小澤翁ともゆかりのある桐朋学園大学という有名な音楽大学でも、4月1日付で梅津時比古さんという方が学長に就任されています。これを知って、ついにジャズマンが桐朋の学長に!と盛り上がったのですが、それは梅津和時さんでしたね。よく似たお名前ですが、こちらはサックス奏者ではなく、毎日新聞出身の音楽ジャーナリストでした。
「冬の旅」で、シューベルトのピアノ伴奏つきのこの歌曲集をすべて無伴奏混声合唱で演奏した里井宏次とザ・タロー・シンガーズが、同じコンセプトでやはりシューベルトの「Die schöne Müllerin」を録音した時には、この作品の邦題が慣れ親しんだ「美しき水車小屋の娘」ではなく、「水車屋の美しい娘」という、形容詞の位置が微妙にシフトしたものになっていました。実は、そのようなクレジットを主張したのが、ほかならぬこの梅津新学長なのです。彼はこのCDのライナーノーツを執筆、歌詞の対訳も手掛けています。その中で彼は、従来の邦題では「美しき」が、「水車小屋」にかかると考えて、そのようなこぎれいな「水車小屋」を思い浮かべるリスナーが出てくる可能性を完全に断つために、敢えてこのような訳を試みたと、熱く語っています。つまり、「水車屋」という職業は当時は差別の対象であって、その職場は決して「美しい」ものであってはならない、という主張ですね。
それは大いに理解できますが、従来の訳ではもう一つ、「美しき水車屋の娘」というのもあって、これだったらそのような誤った解釈はほとんど起こりえないような気がするのですが、どうでしょうか。建築物としての「水車小屋」だと美醜の対象になるかもしれませんが、「水車屋」という職業自体には、そのような形容詞はなじみませんからね。かつて、モーツァルトの「魔笛」を、「魔法の笛」と呼ぶことにしよう、と躍起になっていた人がいましたが、今では誰もそんなことは言いませんしね。実情には即しているのかもしれないけれど、このように日本語として「美しく」ないタイトルは、後世に残ることは決してないのです。
そんな些末なことに関わらなくとも、「冬の旅」と同じ、千原英喜によるこのぶっ飛んだ編曲を聴けば、この曲がそもそもそんなメルヘンチックなものではないことは即座に分かりそうなものです。ピアノ伴奏を忠実に合唱に置き換えるのではなく、そこに「言葉」が入った時点で、そこからはもはやサロンでピアノのまわりに集まった好事家を相手に歌を歌う、という構図は消え去ります。3曲目「Halt」の伴奏は「ザグザグザグザグ」と言っているのですよ。こんなざらついた音感からは、間違いなく疎外された若者の心情しか聴こえては来ません。
この編曲の持つ「重さ」は、メロディではなく、「語り」で歌詞を「述べる」という20世紀の音楽にはよく見られた手法が、「冬の旅」の時より頻繁に用いられていると感じられるところからも伝わってきます。あるいは、その「重さ」を、「粗さ」と置き換えて演奏していた合唱団こそが、その最大の功労者だったのかもしれません。ピッチが微妙に「暗め」なのは、いやでも不快感をそそられますし、パート間のリズムのズレも、不安感を助長するには十分すぎるものがあります。
もっと言えば、このレーベルなら簡単に出来るはずのSACD仕様にしようとはせずに、あえてCDの歪っぽい音で聴かせるというあたりにも、同じ思想を感じることはできないでしょうか。

CD Artwork © EXTON Co., Ltd.
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by jurassic_oyaji | 2013-04-01 20:30 | 合唱 | Comments(0)