おやぢの部屋2
jurassic.exblog.jp
ブログトップ
ヴェルディの合唱
 この週末は、ヴェルディの「レクイエム」の練習、本番のほぼ1ヶ月前ですが、これが最後の合唱だけの練習になるということです。これから先はすべてオーケストラとの合同練習となります。プロのオーケストラでは、せいぜい2、3回ぐらいの合わせしかないはずですし、ニューフィルが毎年やっている角田の「第9」などではそれこそ前日と本番しか合唱が入りませんから、これはかなりぜいたくな感じ、アマチュアならではのコストを度外視した大盤振る舞いとなります。同じようなケースで、大昔にニューフィルがオルフの「カルミナ・ブラーナ」の伴奏を頼まれた時は、やはり今回と同じように合唱団との「合同練習」を何回かやっていたはずです。もはや記憶のかなたに消えていますから、正確には何回なのかは憶えていませんが、やはり4、5回はやったような気はします。なにしろ、その時の指揮者はその合唱団の指揮者でしたから、オーケストラの指揮の経験は殆どなかったはずで、指揮者としての「練習」という意味も少なからずあったのではないでしょうか。
 今回も、やはり日常的にオーケストラを指揮しているわけではない指揮者による本番ですから、「カルミナ」と同じことを、今度はオーケストラではなく合唱団のサイドから体験することになるわけです。そういう意味で、これからのオーケストラとの練習は、本当に楽しみです。
 きのうは、それに備えての、「通し」の練習が行われました。前半は気になるところを取り出してつまみの練習、一通り終わったあとで、本当に全曲の通しをやってみたのですね。なんでも、本番当日はステージが狭いので、合唱団は最初から最後まで立ちっぱなしで歌うことになるのだそうです。この曲の場合、合唱が全く出て来ないかなり長い部分が何か所かありますから、普通はそこでは座って、出番になったらやおら立ち上がってまた歌い出す、というのが一般的なコンサートでの風景ですが、椅子、あるいはベンチを置いて座るだけのスペースがないのだそうですね。萩ホールには。ですから、はたしてそんなことが可能なのかどうか、というリサーチの意味も含めて、実際に全曲を通して演奏してしまいました。つまり、合唱が全く登場しない、本来だったら座って聴いているだけの曲の場合も、しっかり代理のソリストたちが歌っていたのですよ。
 正直、なんでそんな無意味なことをやるのかその時は理解できなかったのですが、今日になってそれはしっかり意味のあることが分かります。きのうは実際に立って歌ったわけではないのですが、それでも終わりごろにはかなり集中力がなくなっていたのが分かりました。そんな様子を見ていた指揮者が、今日になったら本番には、間に休憩を入れると言いだしたのです。つまり、長い「Dies irae」が終わったところで全員がステージから引っ込み、一休みしたらまたステージに戻って「Offertorio」から演奏を再開するというのです。確かに、今回の寄せ集めの合唱団には高齢者がたくさん参加されていますから(私などは「若造」です)、1時間以上の間立ったままというのは現実問題としてかなり厳しいものがあります。とは言っても、私の乏しい体験の中では、この曲のコンサートで間に休憩を入れたものなど見たことがありません。またしても、この仙台ではホールの都合によって、意に染まない形での演奏会が催されることになってしまうのでしょうか。「またしても」というのは、以前、仙台フィルと山形交響楽団の合同演奏でマーラーの「2番」を演奏した時も、やはり合唱が座ることが出来なかったので、最初からステージに合唱が出てくるわけには行かず、なんと3楽章と4楽章の間に出てくるという、これははっきり言って「暴挙」、あるいは作品に対する「冒涜」に近いことが行われた現場にいたことがあるからです。
 つまり、そのマーラーも、今回のヴェルディも、仙台にこれだけの大人数の合唱団がきちんと座って待っていられるだけのスペースを持つ音楽用のホールがないために起こってしまった「悲劇」なのです。いや、ヴェルディの場合はそれが決定したのかどうかは分かりませんがね。でも、これは、もしかしたらそんな貧しいホール事情をアピールするには絶好の機会なのではないでしょうか。少なくとも私は、途中に休憩を入れるような間抜けなヴェルディの「レクイエム」を聴きたくなかったら、早くまともなコンサートホールを作ってくれ、というアピールのために、全力で合唱に参加したいと、固く心に誓うのでした。
c0039487_2251262.jpg

 東京だったら、「まともな」ホールはいくらでもあるのに。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2013-05-12 22:05 | 禁断 | Comments(0)