おやぢの部屋2
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Classica Francese
Classica Francese_c0039487_2221455.jpg
Anette Maiburg(Fl), Alexandra Cravero(Voc)
Emmanuel Ceysson(Hp), Karina Buschinger(Vn)
Wen Xiao Zheng(Va), Guido Schiefen(Vc)
Mathias Haus(Vib, Xylo)
Andreas N. Turkmann(Arr)
MDG/910 1825-6(hybrid SACD)




ドイツのフルーティスト、アネッテ・マイブルクは、ハーゲン・フィル、バンベルク交響楽団などのフルート奏者として活動しつつ、「後進の指導」にもあたるというごく普通のクラシックのフルーティストとしてのキャリアを重ねていましたが、2008年から、このMDGレーベルとともになかなか興味のあるプロジェクトを始めました。それは、「クラシカ」というタイトルの、一つの国をテーマにして、クラシックという枠を超えてフォークロアまでに及ぶレパートリーを紹介するというアルバムを作ることでした。現在までにキューバ、アルゼンチン、ヴェネズエラ、スペインの4つの国のアルバムが完成、今回はフランス編です。
フランスともなると、当然今までの、ある意味「民族色」の濃いレパートリーとは一味違う選曲となってくるのでしょう、ここで「クラシック」に対して選ばれたのは「シャンソン」でした。念のためですが、ここで言う「シャンソン」とは、16世紀頃の世俗的な合唱曲のことではなく、20世紀になって作られた「ポップス」の1ジャンルとしてのヒット・チューンのことですからね。
それに対して、「クラシック」からはドビュッシーの「ソナタ(Fl, Va, Hp)」、「牧神の午後への前奏曲」、クラ(クラス)の「五重奏曲」、そしてジョリヴェの「リノスの歌」というラインナップです。「牧神」と「リノス」は、室内楽のバージョンです。
まずは、いかにもフランス風のテイストが醸し出されそうなドビュッシーの「ソナタ」から、アルバムは始まります。この3つの楽器が溶けあって、えも言われぬ「おフランス」の情緒を、まず聴いてもらおう、というコンセプトなのだな、と、普通は考えてしまいます。ところが、この才人マイブルクが仕掛けたのは、そんな甘ったるいものではありませんでした。彼女は、この、凡庸な演奏家の手にかかれば、思わず眠気を催さずにはいられないほどの退屈な時間を過ごすことになってしまうような曲から、あり得ないほどの生き生きとした躍動感を引きだしていたのです。彼女のフルートは、時としてこの曲に求められる表現の幅を大きく逸脱した、積極的な表情を見せています。きっぱりとした意志の感じられるクレッシェンドや、自由自在のルバートによって、今まで聴いたことのなかったような芳醇な魅力を、この曲から引き出していたのですね。相方のシャオツェンのヴィオラも、同じように積極的な音楽を仕掛けてきて、さながらツイン・ギターのバトルのような様相すら見せてはいないでしょうか。
そして、次に控えるのが「シャンソン」です。ところが、その「アムステルダム」のイントロときたら、殆ど「クラスター・ミュージック」のような「現代的」なアレンジによって、まるで「ゲンダイオンガク」のように聴こえてくるではありませんか。アレクサンドラ・クラヴェーロの歌も、殆ど「シュプレッヒ・ゲザンク」のような異様さで迫ります。アンドレアス・タルクマンという人が編曲を担当していますが、これはただ事ではありません。
ところが、そのあとに「牧神」をこのメンバーのためにハープのエマニュエル・セイソンが編曲したものが演奏されますが、これがオリジナルの持っている風通しの良さがまるで継承されていない、なんとも重苦しいアレンジなのですね。そんな毒気にあてられたのか、それに続くクラ(クラス)は何の変哲もないただのサロン音楽に聴こえてしまうし、ジョリヴェに至っては肝心のフルートが陰にまわってしまって、この曲のエキスがさっぱりとなくなってしまっています。
そうなると、「シャンソン」も、やけに芝居がかった歌が鼻に付いてくる始末です。せっかく好スタートを切ったというのに、終わるころにはスタミナ切れ、76分45秒もの長丁場をテンションを保ったまま完走するのは、大変なことなのだな、というのが正直な感想です。

SACD Artwork © Musikproduktion Dabringhaus und Grimm
by jurassic_oyaji | 2014-02-07 22:22 | フルート | Comments(0)