おやぢの部屋2
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Mythes Étoilés
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Kaspars Putnins/
Latvian Radio Choir
AURORA/ACD 5083




ひところの「ニセ作曲家」事件は、はた目にはなかなか興味深い事実を提供してくれるものでした。宮川彬良さんのことじゃないですよ(それは「二世作曲家」)。世間的にはSさんに全ての罪をなすりつけて一件落着ということになりそうですが、これはそんな単純なものではないような気がしてなりません。誰も知ることがなく隠蔽されてしまう事実の方が、実はよっぽど恐ろしいことに気づくべきでしょう。
一連の情報の中で一つ確実に明らかになったのは、彼がこれまでに世に問うた(とされる)作品は、まぎれもなく今のこの時代に作られたクラシックの作品でありながら、決して「現代音楽」とは受け取られていない、ということです。例えば、「交響曲第1番」の「レコード芸術」誌でのカテゴリーは「現代音楽」ではなく「交響曲」ですし、Sさんの代わりに実際にこれらを作った(とされる)Nさんの、「Sの依頼は現代音楽ではなく調性音楽でしたから、私の仕事の本流ではありません」(週刊文春)という言葉により、それはさらに裏付けられます。つまり、「調性音楽」は断じて「現代音楽」ではない、という認識ですね。これがとんでもない事実誤認であることは明白です。現在、世界的に広く評価されている「現代音楽」の作曲家であるクシシトフ・ペンデレツキやアルヴォ・ペルトの作品は、まぎれもない「調性音楽」ですし、日本を代表する作曲家で、Sさんの作品を絶賛したとされる三枝成彰の作るものも、「調性音楽」に他なりません。というか、音楽史に精通し「現代」、正確には「今の同時代」の「音楽」がその歴史の中でどのような位置を占めているかを的確に把握している人にとっては、このNさんのコメントは「いわゆる現代音楽」という、もうとっくの昔に死に絶えた概念の亡霊を追い求めている偏屈な作曲家の勘違いとしか思えないはずです。この方のお仲間がブログで「『予定調和』をなぞるほど恥ずかしく、非創造的なものはない」などと書いていますが、こんなことを言う人の作ったものなどは、人の心を打つことは決してありません。
「調性」を持つか否かといったような些細なことにはこだわらず、真に「現代」における音楽の姿を追及している作曲家たちとの共同作業で、多くの「現代音楽」を生み出してきたラトヴィア放送合唱団の新しいアルバムを聴けば、例えば「合唱」というフィールドではどんなものが作られているかが分かるはずです。
タイトル曲である、ノルウェーの作曲家ラッセ・トゥーレセンが2010年に作った「星の神話」では、西洋音楽以外のイディオムまで貪欲に取り入れて、逞しい世界を作り上げています。物を作るというのは、その人の内面をさらけ出すこと、それが見事に芸術として昇華したものを見る思いです。
ジョン・ケージなどという、まさに「現代音楽」の一時代を築いた人の合唱曲は初めて聴きましたが、その「Four2」というのは、おそらくきちんと音を指定したものではなく、演奏者が自由に一定のガイドに従って作り上げていくようなものだったのではないでしょうか。その結果聴こえてきたのは、見事な「調性音楽」ではありませんか。いや、それは「『調性音楽』を素材にした新しい音楽」とでもいうべきものでしょうか。そのぐらいの懐の深さがないことには、「現代」の作曲家は務まりません。
この中で最も衝撃的だったのが、スウェーデンの作曲家アンデシュ・ヒルボリが1983年に作った「Mouyayoum」です。意味不明のタイトルは、全曲母音唱によって歌われるものだからでしょう。技法的にはライヒのミニマルの手法を取り入れたものですが、そこから肉感的ですらある世界を見せているのですから、すごいものです。これは混声バージョンですが、男声バージョンも用意されていて、すでに多くの合唱団のレパートリーになっているのだとか。そうなんですよ。多くの人に聴いてもらえてこその「現代音楽」なのだ、とは思いませんか?

CD Artwork © Nowegian Society of Composers
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by jurassic_oyaji | 2014-02-19 20:56 | 合唱 | Comments(0)