おやぢの部屋2
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MOZART/Requiem
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Genia Kümeier(Sop), Bernarda Fink(Alt)
Mark Padmore(Ten), Gerald Finley(Bas)
Mariss Jansons/
Netherlands Radio Choir
Royal Concertgebouw Orchestra
RCO LIVE/RCO 14002(hybrid SACD)




マリス・ヤンソンスがモーツァルトの「レクイエム」を演奏したアルバムが出ました。しかし、ヤンソンスがモーツァルトを演奏したものなど過去にあったのか、というぐらいの、これは珍しい演目です。念のため某通販サイトで検索してみたら、ヤンソンスがモーツァルトを演奏しているアイテムはこれを含めて4品、他の3品は、全てメインの曲目ではなく、フルート協奏曲やヴァイオリン協奏曲の伴奏をしたものですから、もしかしたらこれが彼にとっての初めてのモーツァルトをタイトルとしたアルバムということになるのでしょうか。
さらに、彼が指揮をしているこのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団も、この検索ではモーツァルトの「レクイエム」のアルバムは他には見つかりませんでした。という、ある意味レアな顔触れによるSACDということになります。
そんな「不慣れ」なレパートリーに対して、彼らは特にスタンスを変えることなく、彼らの日常の演奏活動の土俵の上にモーツァルトを引きずりあげて勝負を仕掛けているように見えます。まず、弦楽器はかなりのプルト数を確保しているのでしょう、それはライブ録音の会場であるコンセルトヘボウの広い空間全体に煌めくような豊潤さをもって響き渡っています。さらに、最近ではもはや主流となった、リズム・セクション(つまり、ティンパニとトランペット)だけにはピリオド楽器を用いるといったようなチマチマしたことには関心を向けることはなく、あくまでマーラーやブルックナーを演奏する時に用いる楽器をそのまま使うというやり方を貫きます。
この、特にティンパニの存在感は、間違いなく18世紀の音楽には見られないもの。そう、単にリズムを強調するという役割を超えた、それ自身がクライマックスの核となるような強い主張は、まさにブルックナーに於けるこの楽器の役割そのものではないでしょうか。中でも「Dies irae」などは、まさにブルックナーの語法によって演奏されたモーツァルトに他なりません。しかし、その他の曲でも盛り上がるところでは例外なく披露されているこのティンパニの強打は、最初のうちこそ疲労感を抱くほどの戸惑いがあったものの、慣れてくればそれは見事な快感に変わります。かと思うと、「Tuba mirum」でのバスのソロなどは、まるでベートーヴェンの「第9」の終楽章での大仰なレシタティーヴォのよう。そこに、びっくりするほど奔放な装飾を付けたりすれば、もはやジョークにしか聴こえないほどの危うさを持ってしまいます。
さらに、やはり18世紀的なセオリーにのっとれば、トロンボーンなどはソロの部分はともかく、基本的に合唱と同じパートの補強という意味を持っているはずですが、ここではそんな役割には留まらず、積極的に厚ぼったいサウンドを作りだすことに貢献しているように思えます。同じことはオルガンにも当てはまります。「Quam olim Abrahae promisisti」で朗々と響き渡るペダルの音は、このホール備え付けの大オルガンからのものに違いありません。確かに、普通にこの作品に使われるような小ぶりのポジティーフでは、ブルックナーのサウンドを作り出すことはかないません。
面白いことに、いくらそんな大げさな身振りで飾り立てようとしても、それでモーツァルトの音楽自体が損なわれることはありません。というより、特に最晩年の作品が持つ、まさに時代様式を超えた充実した作風には、どんなアプローチにさらされようがびくともしないほどの確固たる主張が込められているのではないでしょうか。
つまり、ジュスマイヤーが作った「Benedictus」などでは、確かにモーツァルト固有の作風は巧みに取り入れられてはいるものの、それはモーツァルト自身がこの時期に達した霊感を宿らせるほどの高みには至っていないことが、このヤンソンスの「19世紀的」な演奏によって見事にあぶり出されているのです。

SACD Artwork © Koninklijk Concertgebouworkest
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by jurassic_oyaji | 2014-06-11 20:50 | 合唱 | Comments(0)