おやぢの部屋2
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HOSOKAWA/Orchetral Works・1
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Stefan Dohr(Hr)
児玉桃(Pf)
Anssi Karttunen(Vc)
Jun Märkl/
Royal Scottish National Orchestra
NAXOS/8.573239J




思い出したようにNAXOSからリリースされる「日本作曲家選輯」ですが、これはもちろん21世紀の初頭に華々しくスタートした同名のシリーズとは、全く別のもの、この間のハツィスが「Canadian Classics」というシリーズのカテゴリーで扱われていたのと同じように、「Japanese Classics」というような呼び方の方が誤解を招きません。
あくまで日本人としてのアイデンティティをベースに、世界的な視野で作曲活動を行い、多くの団体からの委嘱の要請が引きも切らない細川俊夫の、全てこれが世界初録音となる作品です。
細川の中にある「日本的」なファクターの最大のものは、その独特の時間軸の扱いなのではないでしょうか。西洋音楽の大前提は音を「管理」すること、そのためには「音」そのものだけではなく、それが鳴り響く「時間」までもが管理の対象となっています。つまり、時間軸に「目盛」を付けることによって発生されるパルス(ふつう、それを「リズム」と呼びます)を、音楽の重要な要素とみなしているのです。しかし、細川の音楽からは、その「目盛」が完璧に消え去っています。
ベルリン・フィル、ロイヤル・コンセルトヘボウ管、そしてロンドンのバービカン・センターの三者からの委嘱によって2010年に作られた「ホルン協奏曲『開花の時』」では、始まったことすらわからないほどのあいまいなところから、弦楽器のE♭の音が聴こえてきます。そこには「目盛」どころか、「開始点」すら存在していません。それはそのまま時間の中を漂うだけ、時折聴こえてくる繊細な打楽器の音は、決してその時間を束縛しようとするものではありません。こんなゆったりとしたたたずまいを何度か経験したことに気づくのには、ほんの一瞬で充分です。それは、リゲティの名作「ルクス・エテルナ」。あのア・カペラの音響世界がもたらしていたものと、このあたりの感覚は、驚くほどの類似性を見せています。
しかし、この作品全体の振幅の大きさとそれがもたらすインパクトは、リゲティとは全く別物であることも、すぐに分かります。次第に音の密度が高くなるにつれて、そこからはほとんどエクスタシーのようなものを感じられるようになります。そこにはある種のなまめかしささえ伴っているとさえ思われるのは、そのような極端な振幅が、幾度となく繰り返されるからに違いありません。最後にホルン・ソロによってもたらされる「雄たけび」、そして、単音で始まった音楽が、最後はE♭とB♭の2つの音による5度音程によって終止することが何を意味するかは、明白です。細川って、見かけによらずエロ。
2曲目の「ピアノとオーケストラのための『月夜の蓮』」には、「モーツァルトへのオマージュ」というサブタイトルが付いています。それは、この曲が作られた2006年に、「モーツァルト・イヤー」にちなんで委嘱元の北ドイツ放送が設定した課題に応える意味で、モーツァルトのピアノ協奏曲の断片が最後に引用されているからです。ソロ楽器が持続音を出せないピアノであることで、ここではもっぱらアルペジオによる時間軸との戦いが見られます。その中に放り込まれたモーツァルトは、それがいかに細川の世界から遠いところにあるものであるかの指標としての役割を見事に果たしています。
3曲目の「チェロとオーケストラのための『チャント』」(2009年)は、それまでとガラリと変わったチェロのダイナミックな「あえぎ」によって、勇ましく始まります。日本の「声明」をモティーフにしているそうですが、それがちゃんとわかる形で現れるわけではなく、例えば長二度とか長七度の下降といった声明特有の音程が使われている程度のこと、他の曲もそうですが、添付されている作曲家自身の解説などは、あまりあてにしない方が良いに決まってます。
それにしても、これらの音楽が持つ繊細な粒立ちを見事にとらえた録音は見事としか言えません。

CD Artwork © Naxos Rights US, Inc.
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by jurassic_oyaji | 2014-06-29 20:44 | 現代音楽 | Comments(0)