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MOZART/Symphonies Nos. 40 & 41
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Evgeny Svetlanov
Swedish Radio Symphony Orchestra
WEITBLICK/SSS0162-2




スヴェトラーノフとスウェーデン放送交響楽団とのライブ録音シリーズは、おそらく「ヒストリカル」という範疇に入るものなのでしょうが、そういうものにありがちないい加減な音ではないところが救われます。ここでは1988年と1993年に録音されたものが収録されていて、1988年の方はまだアナログ録音です。この頃にはもうレコード会社はほとんどデジタル録音に移行していましたが、放送局ではまだアナログだったのですね。いずれにしても、このスウェーデン放送の録音は、バランスはいいし音はきれいに伸びてるし、その辺のいい加減なメジャー・レーベルの音をはるかにしのぐ素晴らしいものです。
ここで演奏されているのはモーツァルトの最後の2つの交響曲、「スヴェトラーノフがモーツァルト?」というなんとも言えない違和感が、聴きたくなった動機です。その違和感の要因は、あまりにもモーツァルトには似つかわしくないおっかない顔でしょうか。例えばノリントンやコープマンのようにヘラヘラ笑いながらのモーツァルトならハッピーな気持ちで聴けますからね。もっとおっかない顔のアーノンクールみたいない人だってモーツァルトをやっているではないか、とお思いでしょうが、あいにく彼が演奏しているのはモーツァルトとは似て非なるものなのですから。
まず「40番」、こちらがアナログ録音ですが、クリア感から言ったらデジタルの「41番」を超えています。この曲を、予想通りスヴェトラーノフは異様に遅いテンポで始めます。ただ、テンポは遅くてもとても爽やかな流れに乗っているので、ベタベタした感じは全くありません。彼は、こういう音楽を作ることも出来たんですね。力を込めて重々しく、というシーンは、ですからここではまず出てきません。それだからこそ、例えば第1楽章で展開部が終わって再現部に入るところのちょっとした「タメ」が、非常に効果的に感じられます。
ただ、第2楽章あたりはあまりに流れ過ぎていて、それをそのテンポでしっかり繰り返していますから、ちょっと退屈に思えてしまいます。そんな「流れ」を作っているのが、例えば第3楽章でよく見られる楽譜にはないスラーではないでしょうか。本当はそういうところできちんとメリハリをつけてもらいたいような気もしますが、これが彼のモーツァルトなのでしょう。
ところで、第3楽章の01:09あたりでソロ・フルートの定位が、突然左から右に変わるということが起こっています。まるでフルート奏者が2人いるように聴こえますが、そのつながりがとても不自然、おそらく本番でフルートが出そこなったので、別のテイクを使って編集したのではないかと思うのですが、本当はどうなのでしょう。昔、ブーニンがN響でラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を演奏した時にも、生中継でブーイングもののものすごいミスを犯した部分を、後に編集して放送していましたから、「放送音源での編集」というのもありうるのでしょう。
それからほんの5年後の「41番」では、かなり様子が変わっていました。テンポはごく普通の軽快なものですし、なにか猛烈な推進力のようなものが感じられます。録音状態が違うこともあるかもしれませんが、指揮台を踏み鳴らす音とか、指揮者のうなり声などもはっきり聴こえてきて、音楽以外のところでもものすごく力が入っていることが分かります。
もちろん、そういうパワー全開の演奏ですから、他の指揮者のようなちょっとしたかわいらしい仕草(たとえば、先日フィラデルフィア管弦楽団と来日したヤニック・ネゼ=セガンが見せたようなとことん細やかな表情)などは薬にしたくてもありません。というか、そんなことをやられたら、おそらく気持ち悪くなってしまうことでしょう。
あくまで骨太のモーツァルトは、フィナーレのエンディングではついに雄大なテンポに変わって、堂々と終わるのです。

CD Artwork © Melisma Musikproduktion
by jurassic_oyaji | 2014-10-01 20:47 | オーケストラ | Comments(0)