おやぢの部屋2
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MOZART/Requiem
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Carolyn Sampson(Sop)
Mrianne Beate Kielland(MS)
櫻田亮(Ten), Christian Immler(Bar)
鈴木雅明/
Bach Collegium Japan
BIS/SACD-2091(hybrid SACD)




バッハの「権威」であるバッハ・コレギウム・ジャパンによるモーツァルトの「レクイエム」です。
未完に終わったこの作品を演奏可能な形にするという作業に関しては、近年多くの修復稿が発表され、最も初期の成果であるジュスマイヤー版との覇権を争っています。そんな中で、今回用いられているのも、鈴木優人さんが新たに作り上げた、独自の修復稿でした。もちろん、これが最初の録音となります。
ライナーノーツでは、優人さん自身によってこの稿のコンセプトが明らかにされています。それによると、骨子は基本的にジュスマイヤー版を尊重したうえで、この修復の最初の作業を行ったヨーゼフ・アイブラーのオーケストレーションも取り入れるという点と、さらに、「Lacrimosa」のあとに、モーンダー版で初めて行われた「アーメン・フーガの挿入」を採用している点です。
これだけ聞くと、「アーメン・フーガ」を除いては、やはりアイブラーの仕事を最大限取り入れた「ランドン版」とよく似たものなのでは、という気がしてきます。しかし、なぜかこの「鈴木優人版」は、そのランドン版ともまた異なる仕上がりになっていたのです。
アイブラーがオーケストレーションを施したのは、「Sequentia」の中の1曲目の「Dies irae」から5曲目の「Confutatis」までです。実は、ランドン版ではアイブラーの楽譜に、さらにランドンの手で追加されている部分がありますから、そのあたりでは鈴木版とは異なってはいても、4曲はおおむねアイブラーの編曲に忠実なようです。ただ、「Rex tremendae」はちょっと問題。なにしろ、冒頭の「ジャン・ジャン」という弦楽器のあとの休符の部分に、盛大に管楽器が「パー」と入る、もろジュスマイヤー版の形だったのですから驚いてしまいました。ここは、ジュスマイヤーの最大の「失策」とされていて、後の修復稿では例外なく全パートが休符になっている部分です。もちろんランドン版でも休符なのですが、なぜ鈴木さんがあえてこのジュスマイヤー版の形にしたのかは理解できません。そのあとの6小節目でティンパニなどがなくなって合唱とトロンボーンだけでまるでア・カペラのように美しく演奏される部分はしっかりランドン版通りだというのに。
もう一つ不可解な点は、「Lacrimosa」の最後の部分です。鈴木版では、音楽はジュスマイヤー版通りなのに、最後の2小節のテキストだけが「Amen」ではなく、その前に歌われている「Requiem」に置き換わっているのです。もちろん、これは次に単独で「Amen」が歌われていることへの配慮なのでしょうが、ジュスマイヤーは「アーメン・フーガ」の存在を知らずにきっちり「Amen」まで含めてこの曲を作ったのですから(この部分は、まさに「アーメン終止」)、こんな安直な手直しは何の意味もありません。鈴木さんはジュスマイヤーの創作部分である「Sanctus」や「Benedictus」ではあちこち派手に改変しているのに、(「Benedictus」の間奏で、22小節目のバセット・ホルンのメロディがいきなり短調に変わったのには、笑ってしまいました)なぜここにもっと思い切った手を施さなかったのでしょう。
もう一つ、これはあくまで「付録」という形で、「Tuba mirum」を初版の出版譜通りに演奏していました。その楽譜の現物がライナーに掲載されていますが、たしかにトロンボーンが吹くのは冒頭のファンファーレだけで、それ以降のソロは全てファゴットが吹くように指定されています。諸般の事情でミスプリントとされていたものを復活させたプランですが、これはもしかしたらありかな、という気はします。常々、この美しいメロディがトロンボーンで演奏されたものには、かなりの違和感があったものですから。しかも、演奏はとても難しく、プロでさえ本番でしくじって恥をかく場面を何度も見ていますので、なおさらです。
演奏は、メゾのキーランドの放つインパクトには、すごいものが感じられたものの、合唱のいつもながらのとりすました歌い方は、到底好きにはなれません。

SACD Artwork © BIS Records AB
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by jurassic_oyaji | 2014-11-06 23:12 | 合唱 | Comments(0)