おやぢの部屋2
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STAINER/The Crucifixion

James Gilchrist(Ten)
Simon Bailey(Bas)
Stephen Farr(Org)
Timothy Brown/
Choir of Clare College, Cambridge
NAXOS/8.557624



キリスト教徒であるなしにかかわらず、キリストの最後の受難の物語は私たちを惹き付けて放さないものがあります。1年ほど前に公開されたメル・ギブソンの監督による映画「パッション」も、そんな「ツボ」を心得た作品で、多くの観客を集めた大ヒットとなったのも、記憶に新しいところです。ただ、この映画の場合、その「受難」のシーンがあまりにもリアリティに富んでいたため、教会関係者からある種の拒否反応があったとも聞いています。確かに鞭を打たれて真っ赤にふくれあがったキリストの姿は、ちょっと目を背けたくなるようなところはありました。そして、十字架に付けるシーンも、実際に手や足に釘を打ち付けるという(もちろん特殊撮影ですが)残酷な場面があったりして、「何もそこまで」という思いには駆られたものです。ピアスだったら構いませんが(それは「ファッション」)。
この題材を音楽に持ち込んだものが、ご存じ「受難曲」なわけですが、これも言ってみれば「暗い」音楽です。最も有名な受難曲であるバッハの「マタイ受難曲」の最初のコーラスの暗さといったら、まさに極めつけ。執拗に繰り返されるホ短調のオスティナートに乗った、まるで地の底を這っているような重々しい合唱を聴いていると、これから体験することになる出来事のあまりの重大さに、思わず襟を正したくなってくることでしょう。そして、それから3時間にわたる「苦行」を経た後に現れる最後の合唱の、また暗いこと。まさに胸の奥からほとばしり出る魂の叫びと言ってよいこのハ短調の曲を聴き終えた時には、とても普段の生活には戻れないような罪悪感が、体中にしみこんでしまっているはずです。
しかし、ご安心下さい。「受難曲」とは言っても、そんな暗いものばかりではないことが、このイギリス19世紀後半の作曲家、ジョン・ステイナーの「主を十字架に」という曲を聴くことによって分かるのですから。これは、逆に「こんなに明るくていいの?」と心配になるほどの、屈託のない音楽です。編成はテノールとバスの2人のソリストと混声合唱、そしてオルガンという簡素なものです。ソリスト達は例によって物語の進行を担いますが、テノール=エヴァンゲリスト、バス=イエスといったきっちりした役割ではなく、適宜配役が変わるのが面白いところでしょうか。スパロウ・シンプソンという人が、聖書からテキストを選択すると同時に、聖歌の歌詞を作っています。
ステイナーという人は、ごく平凡なメロディーの中に情感や深い意味を盛り込むことを身上としていたようで、1887年に作られたこの曲でも、その平易、場合によっては陳腐なメロディーは、とても魅力的な側面をもって迫ってきます。聖書の福音書による「レシタティーヴォ」にしてからが、「語り」というよりは完璧な「歌」、とても退屈などしていられないような甘いメロディーで私たちを誘います。何より惹き付けられるのは、バッハあたりの「コラール」に相当する「聖歌」の数々、そのキャッチーな歌が、言葉をとことん大事にしたふくよかな合唱によって歌われると、そこは殺伐としたゴルゴタの丘ではなく、まるで、暖かい暖炉の燃えさかるクリスマス・パーティーの会場のように思えてくるから、不思議です。なぜか唐突に、「雨が上がるように、静かに死んでいこう」という八木重吉の厭世的な詩に、とてつもなく楽天的な音楽を付けた多田武彦の「雨」という男声合唱曲を、思い出してしまいました。
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by jurassic_oyaji | 2005-07-25 19:54 | 合唱 | Comments(0)