おやぢの部屋2
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VERDI/Messa da Requiem
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Anja Harteros(Sop), Daniela Barcellona((MS)
Wookyung Kim(Ten), Georg Zeppenfeld(Bas)
Lorin Maazel/
Philharmonischer Chor München(by Andreas Herrmann)
Die Münchner Philharmoniker
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今年の11月には首席指揮者のゲルギエフと来日することになっているミュンヘン・フィルですが、彼が正式に首席指揮者に就任するのは9月なので今現在ではそのポストは空席になっています。つまり、本当はそれまでは前任者のマゼールがその職を全うするはずだったのですが、あいにく彼は任期途中で辞任、そして昨年の7月13日には亡くなってしまったので、それ以来空席になっているということなのですね。
マゼールが、ティーレマンの後を受けてこのオーケストラのシェフになったのは2012年。それまでに、様々なオーケストラやオペラハウスの指揮者を歴任していたはずなのに、例えばカラヤンとベルリン・フィルとか、バーンスタインとニューヨーク・フィルといったような、真に「彼のオーケストラ」と呼べるようなものがないと感じられるのはなぜでしょう。いや、もしかしたら、カラヤン没後のベルリン・フィルのシェフになっていたかもしれませんが、あいにくそのポストはアバドに奪われてしまっていたのでした(濡れ手にアバド)。
実際に彼が首席指揮者なり音楽監督として在籍した団体は、ベルリン放送交響楽団から始まって、ベルリン・ドイツ・オペラ(確か、「トリスタン」を短縮版で日本初演してました)、クリーヴランド管、フランス国立管(やはり、メシアンの「わが主イエス・キリストの変容」の日本初演を行っています)、ウィーン国立歌劇場、ピッツバーグ響、バイエルン放送響、ニューヨーク・フィル、アルトゥーロ・トスカニーニ・フィル、そしてミュンヘン・フィルと多岐にわたっていますが、レコーディングではさらにこれ以外のビッグ・オケとの共演も数知れず、ですからね。ボスコフスキー亡き後のウィーン・フィルの「ニューイヤー・コンサート」の指揮を託されたのは、ほかでもないマゼールでしたし。
その間に、彼の芸風も大きく変わっていきます。晩年に接した多くの映像などでの、大きく音楽をデフォルメするスタイルは、まさに「巨匠」にしか許されないものだったのでしょうね。現代の、あまりに周りに気を使いすぎて小粒になってしまった多くの指揮者とはちょっと別格な、もしかしたらもう現れることのない真の「大物」の指揮姿には、もう接することはできません。
彼が亡くなる5か月前、2014年の2月6日、7日、9日にミュンヘンのガスタイク・ホールで行われた、ミュンヘン・フィルとの演奏がCDになりました。おそらく、これは彼の「最後のコンサート」ではなかったのでしょうが、今のところでは限りなく最後に近いライブの記録(編集は入っていますが)ということになります。
演しものがヴェルディの「レクイエム」なので、そこに何かしら彼自身の「死」への思いをうかがいたくなるのはありがちな心情ですが、そんな先入観をあざ笑うかのように、彼の晩年のスタイルを徹底的に押し出した悠揚迫らぬ演奏には、圧倒されます。常に遅めのテンポをとりつつ、徹底的に磨き抜かれたフレーズからは、この作品の新たな魅力が浮かび上がってきます。そもそも、オープニングの異常ともいえる超ピアニシモからしてヘンタイ、ふつうの再生環境では、この部分ではおそらくなにも聴こえてこないはずですからね。実際にホールで聴いていた人たちは、いったい何が起こっているのかと耳をそばだてていたことでしょう(もっとも、それは単にCDのダイナミック・レンジを出来るだけ稼ぎたかった録音スタッフによるマスタリング上の配慮だったのかもしれません。SACD、あるいはBD-Aであれば、そんな必要はないのに)。
合唱も立派ですし、ソリストたちもとても表情豊かな歌い方なのには感心させられます。しかし、彼らがアンサンブルになると、あまりに個性が強すぎて全くハモっていない、というあたりは、この「巨匠」の怪演に煽られたせいなのだ、と、笑って済ませましょうね。

CD Artwork © Sony Music Entertainment Germany GmbH
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by jurassic_oyaji | 2015-04-07 23:31 | 合唱 | Comments(0)