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MOZART/Davide Penitante, M.HAYDN/Requiem
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Martinez, Bonitatibus(Sop)
Strehl(Ten), Pisaroni(Bas)
Ivor Bolton/
Salzburger Bachchor
Mozarteum Orchester Sarzburg
OEHMS/OC 536



このアルバムは、昨年のザルツブルク音楽祭の期間中の2004年8月8日、モーツァルテウム大ホールで行われたコンサートのライブ録音です。曲目は、モーツァルトのカンタータ「悔悟するダヴィデ」と、ミヒャエル・ハイドンの「レクイエム」という、どちらも、私は今まで聴いたことのない曲ばかり、そんな、初体験の曲に初めて接する時には、大きな期待が伴うものです。
まず、最初の「悔悟するダヴィデ」、曲が始まったとたん、オーケストラによって奏でられた暗いイントロには聞き覚えがありました。これは、あのハ短調の大ミサ曲とまったく同じものではありませんか。私の大好きな「Laudamus te」というソプラノのアリアも、全くそのまま、歌詞だけが変わって歌われているのですから。そう、この曲は1785年に「ウィーン音楽家協会」から頼まれて作ったものなのですが、当時のモーツァルトは時間的な余裕がなかったため、1783年に作ってあったミサ曲(実は、これも最後の「Agnus Dei」が欠けている未完成のもの)の「Kyrie」と「Gloria」をそのまま転用していたのです。テキストが、あのダ・ポンテだということになっていますが、音楽の部分は言ってみれば「使い回し」、彼の場合オーボエ協奏曲をフルート協奏曲に転用した「前歴」があるのですから、そんな珍しいケースではありません。ただ、そこはモーツァルトのこと、しっかりこの曲のための「オリジナル」を用意するのも忘れてはいませんでした。それは、6曲目のテノールのアリアと、8曲目のソプラノのアリアです。この2曲、その前後の「パクリ」をカバーしようという意気込みが作用したのでしょうか、なかなか力のこもった仕上がりです。6曲目の方は4種類の木管楽器がそれぞれちょっとしたソロを披露するのが素敵、音楽も後半でガラリとテイストが変わります。8曲目の方も、やはり後半長調に転調して華やかになるのが聴きものです。
ただ、これらのアリアや他の曲でも、ソリストたちがちょっと張り切りすぎているのが耳に障ります。このソリストは、指揮者のボルトンが選んだといいますから、これは指揮者の意向なのでしょうが、この、まるでベル・カントのオペラを聴かされているような様式感に乏しい力任せの表現は、正直私には馴染めません。
後半は、モーツァルトとは少なからぬ因縁を持つミヒャエル・ハイドンの「レクイエム」(かつて、この作曲家の作品が、モーツァルトの「交響曲第37番」と呼ばれていましたね)。ネットで見ることの出来る輸入元のインフォメーションで「モーツァルトが『レクイエム』を作る時に手本にした」と、大々的に煽っているのであれば、大いに期待をして臨まないわけにはいきません。しかし、実際のところこれはモーツァルトのものとは全くの別物、例えば、連続して一気に演奏される「セクエンツィア」の持つ緊張感は、彼独自の世界です。確かに、その20年後に作られることになる曲との類似点は多々見いだせるものの、そんな先入観などかえって邪魔になるような、これは、素晴らしい音楽です。と言うより、この2人は、ザルツブルクの宮廷楽団での言ってみれば「同僚」ですから、恩人、大司教ジギスムント・フォン・シュラッテンバッハの葬儀のために作られたこの曲は、当然モーツァルトも聴いているわけで、何らかの影響を受けるのはごく当たり前の話なのです。こんな、芸術の本質よりは商品を売り込むことしか考えていない愚劣なインフォを真に受けた私って。
この曲でも、ソリスト陣の張り切りようは目に余るものがあります。その粗雑なアンサンブルは、思わず耳を背けたくなるほど。それだけではなく、いくらライブ録音とはいえ、オーケストラにもあまりに傷が多すぎます。期待に胸をふくらませて聴き始めた私の初体験の曲たち、余計な情報で虚心に受け止められなかったのと、最低限の水準すら満たしていない演奏で聴いてしまったことが、私にとっては不幸な見返りでした。

by jurassic_oyaji | 2005-07-29 19:47 | 合唱 | Comments(0)