おやぢの部屋2
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VERDI/Messa da Requiem

Eva Mei(Sop), Bernarda Fink(MS)
Michael Schade(Ten), Ildebrando d'Arcangelo(Bas)
Nikolaus Harnoncourt/
Arnord Schoenberg Chor, Wiener Philharmoniker
RCA/82876 61244 2
(輸入盤)
BMG
ファンハウス/BVCC-34132/3(国内盤 8月24日発売予定)


しかるべき機材を使いさえすれば、SACDも、そしてサラウンドSACDも再生できるというハイブリッド仕様のSACDは、もはや完全にクラシック・ファンの間で市民権を獲得したようですね。信頼できる筋の情報ですと、何でもこのシステムを導入している人は全てのクラシック・ファンの3割を占めているのだとか、どうやら、DVDオーディオの撤退は、時間の問題のようですね(というか、まだ売ってったい?)。この注目盤も、もちろんそんなハイブリッド仕様の2枚組アルバムです。今まで2枚組の場合はデジパックになっていたものしか買ったことがありませんが、これは例の面取りをしたオールPS製、蓋の開け方にちょっとコツがいる頑丈なケースです。ところが、その蓋を開けると、2枚組の場合普通は中のトレイがヒンジで開閉できるようになっているものが、どこを探してもそんな部分が見当たりません。とりあえずCDをかけてみようと取り外したら、なんと、その下にもう1枚CDが入っているではありませんか。つまり、2枚のCDが重ねられて同じポール(と言うのかな)に刺さっていたのです。こんな使いづらいケースってありますか?1枚目をかけ終わって2枚目をセットする時、その1枚目は一体どこに置いておけばいいのでしょう。
そんな、どこか人間としての感情に欠陥のある人が作ったに違いないケースに入っていたからでもないのでしょうが、このヴェルディの「レクイエム」は、何か、普通の人間の感情からは少し離れたところで演奏されているような気がしてなりませんでした。もっとも、それはここで指揮をしているアーノンクールでは恒常的に見られる現象ですから、今さら驚くようなことではありません。ただ、比較のためにゲルギエフ盤を聴いてしまったことで、なおさらその趣が強調されて感じられた、と言うことなのかもしれません。
この曲は、ご存じのようにダイナミック・レンジが非常に広いものです。幾度となく繰り返される「Dies irae」のバスドラムの強打があるかと思えば、「Lacrymosa」の薄い弦楽器に乗ったメゾのソロのような静かな部分もあるという具合です。また、スコアを見て頂ければ、この曲には「pp」と指定された部分が思った以上に多いことに気付かれるはずですが、そんなppの部分でどれだけ緊張感のある音楽を作れるか、というのが、この曲を演奏する上での「命」と言っても差し支えありません。曲の冒頭「Requiem」が、まさにそのような音楽なのですが、この演奏では、そのppでの緊張感が、全く感じられません。そこにあるのはただの「小さい音」、さらに、ちょっとしたアクセント記号がある部分など、注意深く演奏しさえすれば身震いするほどの情感を表すことが出来るはずなのに、そこで彼がやっているのは、「アーノンクール節」の最たるものである「間の抜けたふくらまし」ですから、失笑を誘いこそすれ、感動などは生まれるはずもありません。それに続く「Te decet hymnus」という、バスから始まる合唱のカノンの生彩のないこと、「敢えて劇的な要素を廃した」と言えば聞こえは良いかもしれませんが、その実体はまるで能面のように無表情な「死んだ音楽」です。「Offertorio」の中間部、テノールのシャーデが「Hostias」と心を込めてしみじみ歌ったあと、同じメロディーを歌うフルートの何と無表情なことでしょう。そう、これこそが彼の演奏の本質、曲が始まってから終わるまで、オーケストラのどのパートからも、ゲルギエフ盤を聴けばあふれるほど感じられる生命感がわき出てくることは決してありませんでした。
自宅でSACDサラウンドを体験できる人が、このCDを聴いて「Tuba mirum」でのトランペットのバンダが後ろから聞こえてきたことに感動したという話を聞きました。そんな子供だましの小細工に引っかかって、演奏の本質を見落とす人が、気の毒でなりません。
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by jurassic_oyaji | 2005-08-03 19:41 | 合唱 | Comments(0)