おやぢの部屋2
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SCRIABIN/Symphony No.1, The Poem of Ecstasy
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Svetlana Shilova(Sop), Mikhail Gubsky(Ten)
Vladislav Lavrik(Tp), Norbert Gembacka(Org)
Mikhail Pletnev/
Chamber Choir of the Moscow Conservatory
Russian National Orchestra
PENTATONE/PTC 5186 514(hybrid SACD)




スクリャービンという作曲家には、一時期ピアノ・ソナタを通じてかなり親密だった頃がありました。特に後期のものは、「白ミサ」とか「黒ミサ」などといったタイトルが付けられた、何かドロドロしたものが込められているような雰囲気を持っていて、とても魅力的に感じられたものです。その辺をあまり強調しないで、サラッと演奏していたルース・ラレードの録音が、愛聴盤でした。
彼の代表作と言えば、なんと言っても「法悦の詩」でしょう。一応これは「交響曲第4番」ということにはなっていますが、それはのちの人が付けたもので、この後の「プロメテ」(交響曲第5番)と同様、作曲家自身は「交響曲」とは呼んでいなかったようですね。まあ、別に呼び名などはどうでもいいことなのでしょうが、クラシックの世界では「交響曲」という呼び名はある種のステータスとみなされるようですから、作曲家、あるいは出版社などはなんとしてもこの名前を付けて、その作品に「箔」をつけたいと考えるのでしょう。あのS氏がかたくなに「交響曲」を世に出したいと願っていたのが、その端的な実例です。ペンデレツキが、ただの「歌曲集」に過ぎないものに「交響曲第8番」という名前を付けたのも、同じような願望の帰結でしょう(マーラーも似たようなことをやっていましたが、彼は番号を付けることはしませんでした)。
1872年に生まれ、14歳でモスクワ音楽院に入学し、ピアノと作曲を学んだスクリャービンは、当初はピアノのための作品を作り続けますが、1900年に初めて作った本格的なオーケストラのための作品が「交響曲第1番」です。これを聴くのは初めてですが、曲全体にみなぎる伸び伸びとした抒情性にはとても惹かれます。形式的には、古典的な4楽章の交響曲を踏襲した上で、最初と最後にさらに1小節ずつ追加するという形になっています。この、いわば「額縁」にあたる部分がとても爽やかな雰囲気にあふれています。最初の楽章などは、まるで「自然のアルバム」のBGMに使われてもおかしくないほどの、自然の描写の音型が頻繁に現れる美しいものです。
そして、最後の楽章には、なんと「声楽」が加わります。しかし、これはベートーヴェンの「第9」のような押しつけがましいものではなく、基本的にさっきの第1楽章のテイストを引き継いだ曲調の中で、ひたすらこの世に調和をもたらした神を賛美する言葉が、ソプラノとテノールの対話のような形で歌い交わされます。そして、最後に合唱が「高貴な芸術」をほめたたえる、というシナリオですね。
その間の楽章も、とても分かりやすい表現に終始しています。短調で始まるドラマティックな第2楽章、息の長いテーマでやはり自然の描写に余念のない第3楽章、型通りのかわいらしいスケルツォの第4楽章、そしてまるで映画音楽のような壮大さを持った第5楽章です。
ですから、それからほんの8年後に完成した「法悦の詩」をこの曲に続けて聴くと、その落差に驚かされることになります。まあ、そんな多面性があるからこそ、逆にその中にとても強い主張を感じることが出来るのでしょう。つまり、定訳であるこの曲のタイトルの中の「法悦」という言葉を、そんなお上品なものではなく、「絶頂感」と言い換えることで、それは難なく腑に落ちることになるのです。
プレトニョフは、しかし、そんな下世話な好奇心をあざ笑うかのように、極めて冷静に「音楽としての絶頂感」を築きあげているように思えます。それでもなおかつ下半身がムズムズするような感覚が体内に生じたとしたら、それはあまりにもリアルな音像を再生することを可能にしたPolyhymniaのレコーディング・スタッフのおかげなのでしょう。ほんと、このトランペットのリアルさときたら、まさに「絶倫」ものです。そのまま「蜜林」まで突き進んで行ってください。

SACD Artwork © Pentatone Music B.V.
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by jurassic_oyaji | 2015-07-25 22:05 | オーケストラ | Comments(0)