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MOZART, SÜSSMAYR/Requiem
MOZART, SÜSSMAYR/Requiem_c0039487_11490432.jpg

Anton Armstrong,
Andreas Delfs/
St Olaf Choir and Orchestra
St Paul Chamber Orchestra
AVIE/AV 0047(hybrid SACD)



フランツ・クサヴァ・ジュスマイヤーという名前は、モーツァルトの未完のレクイエムを補筆、完成させた人物としてのみ、音楽史に残っています。しかも、そこには決して後生の人を満足させるような仕事をした人としてではなく、突っ込みどころの多いその成果に対して、いかに他の人が異議を唱えたか、さらには、いかに別の補筆を行う余地を残していたかという議論がついて回ります。
重要なのは、「Sanctus」や「Benedictus」などは、モーツァルトのオリジナルではなく、ジュスマイヤーが自らの裁量で「作曲」したという事実です。ですから、そこに不純なものを認めたモーンダーあたりは、この部分を丸ごとカットするという思い切ったことも行っています。しかし、曲がりなりにもこのジュスマイヤーの「版」で200年以上も演奏が続けられていれば、厳密に考えれば他人の作品でも、いつの間にかモーツァルトのものとして違和感が覚えられないほどのものになってしまっているのも、また別の事実なのです。現に「Benedictus」の持つある種優雅なたたずまいは、モーツァルトを始めとするこの時代の作曲者の表現の一つの「型」を見事に作品にしたものだとは感じられませんか?
そんなジュスマイヤーの、「自作」のレクイエムというものが、あったそうなのです。この録音のプロデューサーであるマルコム・ブルーノという人が「発見」したものだそうで、もちろん、これが初めての録音になります。ただ、なぜか、実際の演奏にあたってはこのプロデューサーによって「Sequenz」が2つに分けられて、その間に「Offertorium」が挟みこまれ、さらにそれぞれの楽章で大幅なカットが行われています。なぜ、そのような措置を執ったのかは、この曲の作られ方を見ればある程度納得は出来るでしょう。まず特徴的なのは、テキストがラテン語ではなく、それをドイツ語に訳したもの、しかもかなり自由に韻を踏んだ「歌」の形に直されているということです(「Dies irae」が「Am Tags des Zorns」なんてなっているのは、ちょっと馴染めませんね)。そして、どの楽章も有節歌曲、つまり「1番」、「2番」といった同じ形の短い「歌」の繰り返しになっているのです。そうなってくると、「Sequenz」では同じメロディーの「歌」を8回も繰り返し聴かなければならないことになり、それではあまりに冗漫だということで、ブルーノはそれを半分カットし、前後に分けるということで、演奏会での鑑賞に堪えるものにしたというのです。そんなわけですから、この曲全体でも、聴けるのは小さな「歌」の繰り返し、いわゆる「レクイエム」から想像される、多くの場面を持つ起伏の大きい音楽といった側面は全く期待できません。
どの楽章を取ってみてもその「歌」のテイストは全く同じものに感じられます。そう、そこには、あの「モーツァルト」の「Benedictus」、あるいは「Lacrimosa」の後半と極めて共通性を持つ世界が広がっているのです。それは、18世紀末のウィーンの香りがあふれている音楽、もちろんモーツァルトその人の中にも確かに存在していた音楽には違いありません。だからこそ、それがモーツァルトのオリジナルの中にあっても特に違和感を抱かれることはなかったのでしょう。
モーツァルトのレクイエムの中でジュスマイヤーが担当したパートは、彼の感性とスキルで充分にその存在を主張できるものでした。しかし、一つの「ミサ曲」を作りあげるためには、それだけではない、もっと他の才能も必要になってくる、そんなことが、このアルバムを聴くとまざまざと分かってきます。
そして、カップリング(というか、こちらがメイン)が、そのモーツァルトの作品です。心なしか「Benedictus」での表現が濃いな、と感じるのは、やはりジュスマイヤーの仕事に積極的な意味を見出そうとしている演奏家の姿勢のせいなのでしょうか。本当はどう思っているのか、「クサヴァ」の陰のモーツァルトに聞いてみたい気がします。
by jurassic_oyaji | 2005-08-17 20:14 | 合唱 | Comments(0)