きのうは私の誕生日でした。ですから、いつものようにFacebookは「お誕生日メッセージ」であふれかえることになります。私の場合はそんなに「友達」はいないので、一人一人きちんとお礼のコメントを返すことが出来ますが、それでも結構な時間を使ってしまいましたよ。でも、日頃あまりアクセスのなさそうな人からメッセージが届いたりして、ついでに近況報告などなかなか楽しい機会もありました。
さらに、なんたってGoogleさんからもお祝いのメッセージが届いたりしたのですから、これは本当に驚いてしまいましたよ。
何とはなしにGoogleのトップページに行ってみると、こんなケーキで出来たロゴが出ているんですよね。何かの記念日によくこういうことをやっているのは知っていましたが、そこで私の誕生日が「記念日」になっていたとは。でも、これはあくまで私がログインしている状態のPCでしか見ることはできないんですよね。ですから、世界中で私だけが見られるメッセージだと思うと、ちょっと感激ものです。
まあ、結構長いこと生きてきましたから、あちこちガタが出てきそうなものなのですが、なんだか逆に最近調子が良くなったところが出てきたりしています。それは、今まで多い時にはほぼ毎日発症して結構つらい思いをしてきた偏頭痛が、このところ全く起きていないんですよ。もう、ちょっと集中してPCに向かった時などは必ずその前駆症状が始まって「またか」と落ち込むことがほぼ日常化していたのに、それと同じようなことをやっても全くそれが来ないようになったのです。これは本当にうれしいことでした。ずっとこのままでいてくれるといいのですが。
ところで、最近こんな風にPCで文章を書くのが日常化してくると、果たして自分が書いている日本語は大丈夫なのか、という気になってきます。いや、それこそ長く生きていますから、その間の蓄積はあるので大概のことには対応できるのですが、逆に新しい言葉や言い方にはつい厳しい姿勢をとってしまうことが多いのですね。要は、私一人が反抗していてもどうなるものでもないので、ある程度はそういうものも許していこうという気にはなっているのですが、果たしてそれが全社会的にどうなのか、ということをきちんと知っておきたいな、と思うようになりました。そこで、そんな時の「基準」となるはずの国語辞典を、この際新しく入手することにしました。
そこで買ってきたのが、三省堂の「新明解」です。なにしろ、今までずっと使っていたのが右側の「明解」ですからね。
これはなんと昭和27年に発行されたものです。私が買ったのは「88版」(ふつうは「88刷」と書きますよね)で昭和37年に印刷されたものですが、それでも大昔、西暦だと1962年ですよ。ニューフィルのメンバーだったら、ほとんどの人がまだ生まれていないころですね。
もうこんなにボロボロになっていますが、もちろん中身もボロボロ、とても今使えるような代物ではありません。言葉が生き物だということが、こういうのを見るとよく分かります。
「新明解」を読んでいるといろいろ面白いことがあって、とても楽しいのですが、「明解」のころにはなかった「ぶれる」という言葉の語釈が
責任のある(マスコミから注目される)立場の人の発言などがその時どきの状況によって異なり一貫性を欠くと受け止められる。「首相の発言が微妙にぶれている」
となっていたるするのは、なんか生々しいですね。(「」内は例文)。そして、そのような状況でよく出てくる「説明責任」という言葉が、この辞典には載っていません。うすうす気づいてはいたのですが、この言葉はその程度の実体のないものだったのですね。
おなじように実体のない言葉だと感じている「都市伝説」も、やはりここにはありませんでした。そして、一番気になっていた「世界観」という言葉の語釈は
世界とはこういうものだ、その中で人はこう生きるものだという、世界・人生に対する見方
というのしかありません。「ユーミンの歌詞の世界観」みたいな使われ方は、今のところ日本語としては認められていないのですよ。こういう時にはただの「世界」でいいじゃないかと思っている私の日本語感覚も、まんざらではなかったことに、ちょっと安心しているところです。