おやぢの部屋2
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西洋音楽史









岡田暁生著
中公新書
1816
ISBN4-12-101816-8



音楽というものは、本来「楽譜」などがなくても成立するものです。現に、今世界中で聴かれている「音楽」の90%以上は(「トリビア」で「1000件のサンプルがあれば信頼できます」と言うのと同じく、この数字にはなんの根拠もありません。単なる私の直感です)楽譜を介在しなくても成り立っているものなのです。例えば、解散して30年以上も経つロック・グループ「ザ・ビートルズ」の曲は、いまだに世界中で愛され続け、CDも売れ続けているものですが、彼らが音楽を作る際には、普通我々が「楽譜」と読んでいる、五線紙に音符を書き連ねたものなどは一切使ってはいないのです。「ピアノ伴奏の付いた楽譜集が出ているではないか」とおっしゃるかもしれませんが、あれは出版社が適当に「採譜」をしただけのもの、作った本人達には全くあずかり知れぬ代物なのです(彼らの財布にはしっかり印税が入りますが)。そもそも、いわゆる「楽譜」が伝えることの出来る情報は、たかだか音の高さや長さだけ、彼らの「音楽」を「楽譜」にした時点で、ロックンロールの持つグルーヴ感やギターソロの細かいニュアンス、ましてやヴォーカルの質感などは、完璧に失われてしまうのですから。
現在私達が好んで聴いている「クラシック音楽」が出来上がるまでの道筋をグレゴリオ聖歌から説き起こし、その「発展」の模様を殆どドラマティックなまでに描き出すことに成功した岡田暁生が、その「クラシック音楽」を「楽譜として設計された音楽」と定義したことによって、この「西洋音楽史」は今までの類似書とは全く異なるインパクトを与えてくれることになりました。そこからは、その「クラシック音楽」にかける著者の熱い思いとは裏腹に、「クラシック音楽」がなぜ一部のエリートにしか受け入れられないマニアックなものであり続けているかと言う疑問に対する明白な解答が引き出されています。そもそも、中世の時代から、音楽というものは人が聴いて楽しむものではなく、「神の国の秩序を音で模倣する」ものだと、著者は述べます。さらに、「『音楽は現象界の背後の数的秩序だ』という特異な考え方こそ、中世から現代に至る西洋芸術音楽の歴史を貫いている地下水脈である」とも。ここに、それぞれの時代で音楽を支えてきた、音楽を作る側ではなく、それを聴く対象に注目することによって、その様ないわばマニアックなものが継続して生きながらえた理由を知ることも出来ます。中世では教会、バロックでは王侯貴族、そして古典派以降では裕福な市民階級という、いずれも知的な階層が聴き手であったからこそ、ある種の「教養」として、「クラシック音楽」は確かな存在感を誇っていることができたのです。
ですから、その様な後ろ盾をなくした「クラシック音楽」の「現代」を語る時、著者の筆致はためらいがちにならざるを得ません。現代の「音楽史風景」を、彼は「『前衛音楽』、『巨匠の演奏』、『ポピュラー音楽』の併走」だと言い切ります。もはや「アングラ化」した前衛音楽はともかく、残りの2者ははからずも「楽譜」としてではなく、「音」としての音楽であることが注目されます。
この著作のサブタイトルは「『クラシック』の黄昏」、「クラシック音楽」の本質を先ほどのように言い切った著者の手によって、「楽譜」を介在しなければ存在できなかったこの音楽の終焉は、見事なまでに誰にでも納得できる事実となったのです。
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by jurassic_oyaji | 2006-01-04 20:32 | 書籍 | Comments(0)