おやぢの部屋2
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MOZART/3 Violin Concertos




Andrew Manze/
The English Concert
HARMONIA MUNDI/HMU 907385



今年の「モーツァルト・イヤー」にちなんで、テレビではさまざまな番組が放送されていますが、そんな中にこの前の「モーツァルト・イヤー」、つまり、1991年の没後200年の時に放送されていた交響曲全曲演奏会の一部がありました。トン・コープマン率いるアムステルダム・バロック・オーケストラが当時東京で行ったそういう演奏会を収録したものです。すでにその頃ではこのようなオリジナル楽器による演奏は、ごく一般的なものとして人々に知られるようになってきており、それがテレビで紹介されるのも珍しいことではなくなっていましたが、これを見た時には、少なからぬショックを受けたものでした。それは、指揮者コープマンの天衣無縫とも言える指揮ぶりとともに、オーケストラのメンバーが普通のクラシックのコンサートではあり得ないほどのリラックスした演奏ぶりを繰り広げていたことからもたらされるものだったのです。特に、弦楽器のセクションはお互いに顔を見合わせて微笑みあったりして、その親密度を見せつけていたものでした。ですから、そこから聞こえてくるモーツァルトの音楽は、とことん生気に満ちた躍動感溢れるものだったのです。
その、10年以上前の映像を見直して驚いたのは、そんなメンバーの中心にいて一際目立った動きをしていたコンサートマスターが、今をときめくアンドルー・マンゼだったことです。当時からちょっと惹き付けられるものを持っていたこのヴァイオリン奏者、これが現在の大活躍につながっていたのですね。
ところで、さっきの「モーツァルト・イヤー」、今までこんなものには縁がなかったような人のコメントがテレビを賑わせていますが、そういう場合決まって「モーツァルトは『癒し』の音楽ですね」とか「流れるような音楽に、心が洗われるような気がします」という常套句が聞かれるようになっています。もちろん、マンゼの前回のヴァイオリン・ソナタ集を聴いた人であれば、彼が作り出すモーツァルトがそんな肌触りの良いものではないことは十分予想が付くはずです。そして、まさにその予想通り、この協奏曲でも、マンゼは刺激たっぷり、とても『癒し』などと言ってはいられないようなモーツァルトを聴かせてくれていました。
「3番」の冒頭で、彼のたくらみは明らかになります。最初のフレーズにリタルダンドが掛かっていったかと思うと、ついには完全に終止してしまい、そこから新たに次のフレーズが始まる、といったショッキングな表現がそこにはあったのです。アルバムの最初の、これはいわば「ツカミ」、私達がマンゼ・ワールドに浸るためのいわば通行手形のようなものなのでしょう。ここで彼の術中に陥ったが最後、途中でスピーカーの前から離れることなどできっこありません。「5番」の最後、例の「トルコ風」のらんちき騒ぎ(これはすごいですよ。オリジナル楽器のバルトーク・ピチカート)が終わるまで、この3曲の有名な、ということは、「名演奏」の手垢だらけの陳腐な協奏曲が、まさに自由な翼を持って羽ばたいているさまを味わうことが出来るはずですよ。もちろん、それが「流れるような」ものでないことは保証します。それどころか、川の流れの中に、それに逆らう岩場があることによって初めて見えてくる波しぶきのような「流れ」の「形」を、この演奏からは見つけ出すことは出来ないでしょうか。
ちなみに、彼は最新のブライトコップフ版の楽譜に自らのカデンツァを提供していますが、この録音ではそれを使わないで新しいものを用いています。彼自身のライナーノーツによれば、本来即興演奏であるべきカデンツァは、印刷譜となった途端「ピンで留められた、死んだ蝶々」になってしまう、というのです。それは、「かつて羽ばたいていた」もの、その場で作った新しいカデンツァでなければ、今羽ばたいている生きた蝶々にはなりえない、というのが彼の蝶々、いや主張です。
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by jurassic_oyaji | 2006-02-11 07:13 | ヴァイオリン | Comments(0)