日本伝統文化振興財団/VZCC-52/3このCDは、以前「ビクター」から出ていた合唱曲
50タイトルがこういうレーベル名でリイシューされた時に同時に発売されたものでしたから、そのシリーズのいわば「サンプラー」としての性格しか持ってないものなのだろうと、手を伸ばすのを控えていたアイテムです。しかし、それはある意味で殆ど正しい見方だったのですが、よく見るとそのシリーズには含まれていなかった音源なども見つかるではありませんか。中には、あの坂本龍一が
2005年に作った「合唱曲」なども。そう、確かに限りなくただのコンピレーションに近いものではありますが、これは
1900年に作られた滝廉太郎の「花」から始まる日本の合唱曲の歴史を、その坂本龍一まで綿々と
50人の作曲家の作品で綴るという、実はかなりしっかりしたコンセプトを持ったものだったのです。
それならば、時代順に並べれば良いのでは、と誰しも思うことでしょうが、ここでは敢えて作曲家の名前を「あいうえお順」で並べたということで、なかなかシュールなたたずまいを見せることになりました。原爆の惨状を無調に託したシリアスというには重すぎる曲のすぐあとに、「タランタラ、ランタララン」というリフレインを持つ脳天気なほどの軽やかな歌が続いたとしても、それがこの国の「合唱曲」の多様な側面を象徴するものだと、笑って許してしまいましょう。
確かに、ここには
50人の作曲家による
50通りの語法によって作られた「多様な」作品が並んでいます。しかし、その
105年という決して短くはないスパンの間に生まれたものとしては、恐ろしく似通ったものが集まっているな、という印象は避けられないのではないでしょうか。大半のものは西洋の音楽の模倣という、この国の作曲界がたどった道からは当然の様相を見せているのは、やはり、仕方のないことだと受け止める他はないのでしょうか。最も新しい坂本龍一の「
Cantus Omnibus Unus」という、おそらく昨年は全国の合唱団が歌ったであろう曲にしても、その中に流れているのはエストニアの作曲家アルヴォ・ペルトあたりに代表されるような中世ヨーロッパ音楽への回帰指向です。ドイツ・ロマン派の模倣から始まったこの国の合唱は、「現代」においても「西洋」からの呪縛から逃れることは出来ないのでしょうか。
そんな中にあって、確かに私達の「血」に由来する音楽を目指していた間宮芳生や、三木稔の作品には、今聴いても新鮮な息吹を感じることが出来るはずです。もし、柴田南雄の作品が、初期の習作ではなく後のシアターピースなどが収録されていたのであれば、そこを経て松下耕あたりに至るまでの道筋もより明らかに感じられたことでしょう。同じような理由で、もう少し選曲に対する配慮があれば、湯浅譲二のアヴァン・ギャルド性がここまで浮いてしまうこともなかったはずです。もっとも、武満徹にそれを求めるのは酷というものでしょうが。その結果、アルバムの中で最も印象に残ったものが東海林修の「怪獣のバラード」だったというのは、皮肉なことです。
録音も、
1960年代という、殆ど「歴史的」といっても差し支えないものまで含まれていますから、注意深く聴くことによって、そこからは自ずと演奏史のようなものも浮き出てきます。作曲者清水脩自身が指揮をしている「月光とピエロ」を歌っているのは、東京混声合唱団と二期会合唱団という「プロ」。しかし、その、いかにもソリスト然としてアンサンブルを拒み続けているかのような高慢な歌い方は、今のハイレベルな合唱の世界では全く通用しないものであるのは明らかで
がしょう?
ところで、以前
こちらでこのシリーズの一環のアルバムをご紹介した時に、「『心の四季』の最近の楽譜には無声音の指示が加わっているのかもしれない」と書いたことを裏付けるものが見つかりました。
2004年のものにはしっかり記されている無声音の指示(×印の音符)が、
1975年の楽譜にはなかったのです。
2 みずすまし
17小節目
1975年 女声版第3刷
2004年 混声版第61刷