おやぢの部屋2
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MOZART/La Clemenza di Tito

Pendatchanska, Im(Sop), Fink, Chappuis(MS)
Padmore(Ten), Foresti(Bas)
René Jacobs/
RIAS Kammerchor
Freiburger Barockorchester
HARMONIA MUNDI/HMC 801923.24(hybrid SACD)



モーツァルトの「最後のオペラ」と言われている「ティートの慈悲」、ケッヘル番号も621と、「魔笛」の620の後になっていますが、完成したのも初演されたのも、実はこちらの方が先なのです。「魔笛」を作っている最中に転がり込んだ急ぎの仕事を先に片づけた、という状況だったので、ケッヘルさんは着手した順番に番号を付けたのでしょうね。
そんなやっつけ仕事のせいでもないのでしょうが、このオペラは長いこと晩年の他の作品に比べるとほとんど「無視」されていたような状態でした。一つには、これが「オペラ・セリア」という、神様や王様を題材にした「まじめな」オペラだったことが災いしていたはずです。同じイタリアオペラでも「オペラ・ブッファ」である「フィガロ」や、ドイツ語の「ジンクシュピール」である「魔笛」に見られるおおらかな明るさを、人々はモーツァルトらしさとして求めていたのでしょう。
しかし、昨今の「モーツァルト騒ぎ」のおかげで、こんなマイナーだった作品にも光があたる時代がやってきました。このアルバムが出たのとほぼ同じタイミングで、マッケラス(DG)やスタインバーグ(RCA)の新録音の全曲盤CDもリリースされましたし、DVDも2種類ほど出るというのです。名曲を垂れ流しにしただけのつまらないコンピレーションの猛攻にはうんざりさせられますが、そんな盛り上がりに乗じてしっかりこのような隠れた名曲が紹介されるようになるのであれば、「250年祭」も大歓迎です。
さらに、ウェルザー・メスト指揮によるチューリヒ歌劇場のプロダクションを放送で見るなどという贅沢なことも。この時代の「オペラ・セリア」では女声の音域をカバーできる男声歌手が活躍していましたが、もちろん現代ではそんなものはありません。そこで、その役を女声が歌うことになってしまい、聴いただけでは男の役なのか女の役なのかが分かりづらくなってしまいます。そんな時に映像は本当に役に立ちます。それを見たおかげで、今までほとんど理解できなかったこのオペラの物語の内容が、しっかり頭に入り「何が何だか分からないよう」という状態から脱却できたのですからね。
ヤーコブスのモーツァルトといえば、少し前に「フィガロ」が大評判を取りました。あの時とはオーケストラもキャストも全く異なっているのに、あの時と全く同じ印象が、すでに序曲の段階で与えられたというのは、驚異的なことです。まるで自らも物語に参加しているかのようにオーケストラの各パートから雄弁さを引きだしてしまうヤーコブスの手腕には、改めて感服させられます。
この曲のレシタティーヴォは、「オペラ・セリア」としては、きちんと伴奏が作られたもの(「レシタティーヴォ・アッコンパニアート」)が極端に少なくなっています。そのために、先ほどの放送のように、全て地のセリフにしてしまっている演出もあるのですが、ここでは逆に、単純な「レシタティーヴォ・セッコ」から、とてつもなくファンタジーあふれる音楽を引き出して、それだけで豊かな盛り上がりを聞かせてくれています。対話の部分で相手の言葉を待つことなく素早く入るという緊張感は、ただのセリフ以上にリアリティが感じられます。もちろん、アリアの方でも目を見張るような華麗な装飾がてんこ盛り、ここまでやってもらえれば、この作品をつまらないなどと言う人はいなくなるはずです。名手ロレンツォ・コッポラがクラリネットやバセットホルンのオブリガートを演奏している9番(セスト)や23番(ヴィッテリア)のアリアも、とことん魅力的です。
ティート役のパドモアは、評価が分かれそうですが、力強さが決定的に欠けているという印象は免れません。セストのフィンクは、逆に余計な力を示しすぎでしょうか。最も印象の深かったのがセルヴィリア役のイムだったというのは、このあたりに「オリジナル歌唱」の理想の姿をつい見出したい先入観があるせいなのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2006-07-17 19:44 | オペラ | Comments(0)