おやぢの部屋2
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TAKEMITSU/A Flock Descends into the Pentagonal Garden




Marin Alsop/
Bournemouth Symphony Orchestra
NAXOS/8.557760J



オリヴィエ・メシアンが自作に関しては非常に饒舌だったことは、よく知られています。新潟に行くんですね(それは「上越」新幹線)。自らの信仰と鳥の啼き声をキーワードとして語られるそれらの「言葉」は、もしかしたら実際の音楽以上に色彩的な魅力を振り撒いているのかも知れません。
メシアンの正統的な後継者と自他共に認める武満徹の場合、その饒舌さは師(もちろん、アカデミズムとしての意味ではありません)の比ではありませんでした。折に触れて綴られたその美しい言葉たちは、それ自体で音楽を語り始め、時として音そのものすらも感じられるものとなっていたのです。その「言葉」は、音楽に対する的確な耳を持たないもの、禿頭の詩人や長髪のフォークシンガーなどをも魅了し、時の文化の中で声高に物を言うすべを持った彼らの「言葉」によってさらなる崇拝者を産むことになります。それは、あるいは作曲家にとっては不幸な事態かもしれなかったことを否定することは、誰にもできません。
NAXOSの日本人作曲家シリーズとしては、以前の室内楽を収めたアルバムに続く2枚目の武満徹の作品集、今回はオーケストラ曲、それも後期の作風を反映したものが主になっています。まさに、メシアンと、そしてドビュッシーの語り口と肌合いを色濃く持つに至った最晩年1994年の「精霊の庭」に見られる、ほとんど甘美なまでのテイスト、すなわち「タケミツ・トーン」を存分に味わうには、このアルバムは格好のものとなっているはずです。細心の注意を払って集められた音階とリズム、それらを夢見るようなハーモニーと音色で包み込んだこの曲を聴く人は、それがフランス人の先達の語法が彼の手によって昇華された、まさに一つの人類の遺産であると言っても過言ではないことに気づくに違いありません。
この作曲家が行き着いた世界を、この曲によって知ってしまっているオールソップであれば、それよりはるか以前、1977年に作られたアルバムタイトル曲「鳥は星形の庭に降りる」からさえも刺激的な要素を注意深く抑制して、さらに磨きのかかった響きを産み出そうとするのも当然のことでしょう。例えば、1978年に録音された小澤盤には見られなかった包み込むような暖かなテイストが、ここにはあります。かくして、1981年の「夢の時」とともに、聴き手は極上のサウンドに彩られたフルオーケストラの世界に酔いしれることになるのです。
しかし、同じアルバムの中の、1958年に作られた彼の最初のフルオーケストラのための作品「ソリチュード・ソノール」の中に、すでにこの世界観がきちんと現れていることを発見した時、聴き手は、この甘美さが決して演奏家の方向性のみによって生まれたものではなかったことを知るのです。作曲家としてスタートした時点ですでに彼の中にあった原石は、長い時間をかけて磨き上げられ、この世のものとも思えない光を放つこととなったのです。
もう1曲、ここには、彼が映画のために作った曲を弦楽合奏用の組曲に編んだものが収められています。予想もしなかったことですが、これを聴いたとたん、その他の曲とは全く異なる魅力、言ってみれば音楽の持つ生命感のようなものを痛いほど感じることが出来てしまいました。もちろん、本来観客にきちんと特定の概念を伝える目的を持った音楽だという性質もあるのでしょうが、なにかを訴えるという力に関しては数段勝るものが、その中には存在していたのです。表面的にはブルースやワルツといった誰の耳にもなじむ感触、しかし、そこからは、「庭」だ、「夢」だと多くの「言葉」によって飾り立てられた大層な曲からはついぞ味わうことの出来なかった作曲家の「叫び」のようなものが、確かに伝わってきたのです。
そういえば、彼の「うた」も、全く別の、魅力的な世界を持っていたことに気づきました。あらゆる国に於いてオーケストラのレパートリーとして完全に定着した感のある武満作品、その空虚さを突き抜けて真の訴えかけを届けてくれる演奏には、出会えることがあるのでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2006-07-24 20:37 | 現代音楽 | Comments(0)