おやぢの部屋2
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MOZART/Requiem und der Tod in Musik und Wort

M. Persson-Ovenden(Sop), K. Hammarström(MS)
Will Hartmann(Ten), Franz-Josef Selig(Bas)
Gregorianische Choralschola
Manfred Honeck/
Symphonieorchester und Chor des Schwedischen Rudfunks
QUERSTAND/VKJK0615



とても手のかかった、素晴らしいアルバムです。お仕着せのレパートリーばかりを演奏するのではなく、ひと味違った工夫を、非常に深い次元で加えた時に、そこではその曲が本来持っていた以上の魅力を発することになるということをまざまざと見せつけてくれた、ホーネックのアイディアには脱帽です。録音されたのは2001年の11月なのですが、なぜか今頃のリリース、結果的には、「モーツァルト・イヤー」の、最も豊かな成果となりました。
タイトルには「モーツァルトのレクイエム」とありますが、それだけではなく、そのあとに「そして、音楽と言葉の中の『死』」と続いていることにご注目下さい。ここで演奏されているのは「レクイエム」の中でもモーツァルトが実際にスケッチまで作っていた曲だけ、そこに全く別な要素を組み合わせることによって、下手な補筆など及びもつかないような豊かな世界が広がることを、誰しもが感じることでしょう。
まるで、日本の梵鐘のような鐘の音で、アルバムが始まります。これはライブ録音ではなく、ホールでのセッション、この鐘の音だけは別のところで録音したのでしょう。そして、まずグレゴリオ聖歌のレクイエムが歌われます。モーツァルトの合唱とは別の、グレゴリオ専門の合唱団ですが、これが、まずとても透明な音色で惹き付けられます。そのあとに続くのが、なんと手紙の朗読、マルティン・シュヴァープという俳優さんが読み上げるのは、モーツァルトが1787年の4月4日に父親にあてた手紙です。病床にあった父親への、これが最後の手紙となるのですが、その中でモーツァルトは「この人間の真実で最上の友人ととても仲良しになってしまったので、死の姿を少しも恐ろしいとは思いません」と、「死」について語っているのです。そして、「フリーメーソンの葬送音楽」(ジャケットのケッヘル番号が間違っています)などが演奏された後、初めてあの「レクイエム」が聞こえてくる、という流れになっているのです。暑い時にはこれ(それは「流しソーメン」)。
ここまでのお膳立てが整えられて、「Introitus」を聴けば、ホーネックがここで何を表現しようとしたかは自ずと明らかになります。前奏のバセットホルンとファゴットの紡ぎ出す音楽の、なんと深みのあることでしょう。そう、ここで「死」というものに真摯に向かい合おうとする指揮者の姿勢は、この音楽をとてつもなく陰影あふれるものに仕上げることに成功したのです。
このような強い意志で導かれた時、「名門」スエーデン放送合唱団は、まさに最高の力を発揮して、その思いに応えてくれました。「Kyrie」の二重フーガにこれほどの翳りを与え、細やかな襞を見せつけてくれた演奏を、他に知りません。ソリストたちも、ソプラノのパーソンはじめ、この合唱の澄みきった響きに良く溶け込んだ、それでいて存在感のあるものを届けてくれています。
例えば「Dies irae」のような激しい部分をとってみても、その中には力で押し切ろうとする姿勢は微塵も感じられません。細部まで磨き上げられた極上の響きが、自ずと訴えかけるものを呼び出しているのでしょう。こういうものを、真に美しいと、私たちは感じるのかも知れません。
未完の「Lacrimosa」は、最初は「Sequenz」の最後に、ジュスマイヤーが補筆した形で歌われます。そして、「Offertorium」を経た後、実際に作られた「断片」だけの形で歌われ、「レクイエム」が終わります。一瞬の沈黙の後、同じ年に作られた彼の最後のモテット「アヴェ・ヴェルム・コルプス」が、まるで息絶えたモーツァルトを優しく天上へ導くかのように、しっとりと歌われます。いや、この異常に遅い足の運びは、彼の「死」を、作曲者が言うような「友人」としては受け入れることの出来ない私たちの、ためらいの現れなのかも知れません。
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by jurassic_oyaji | 2006-08-31 20:15 | 合唱 | Comments(0)