おやぢの部屋2
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Mozart Arias
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Magdalena Kozená(MS)
Simon Rattle/
Orchestra of the Age of Enlightenment
ARCHIV/00289 477 5799
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCA-1068(国内盤 9月27日発売予定)


チェコのメゾ・ソプラノ、マグダレナ・コジェナーは、今まさに「旬」の歌手と言えるでしょう。その、ちょっとエキゾティックな風貌と相まって、今や世界中でオペラ、コンサートと、引っ張りだこの状態です。ですから、もちろん今年のザルツブルク音楽祭にも出演、先日放送された「ガラ・コンサート」では、トリをとった「ザルツブルクの華」ネトレプコに一歩もひけをとらない、真にドラマティックな歌を披露してくれていました。その時にカメラが客席を捉えると、真ん中の席には彼女に惜しみない拍手を送っているサイモン・ラトルの姿がありました。その暖かいまなざしは、その半年前にこんな素晴らしいアルバムをコジェナーと作り上げた時の充実した日々を反芻しているかのように見えたものです。
そんな、彼女にとっては初めてというモーツァルト・アルバム、ラトルの包み込むようなサポートを受けて彼女の魅力が存分に発揮されているのはもちろんですが、曲目のラインナップを見て、メゾ・ソプラノのレパートリーだけではなく、本来はソプラノが歌うようなものまで含まれていることにも驚かされます。
先ほどのザルツブルクでは「ティートの慈悲」で男役のセストが歌うアリアを歌っていたのですが、ここでは彼(彼女?)が思いを寄せるバリバリのソプラノの役、ヴィッテリアのアリア(バセット・ホルンのオブリガートが素晴らしい!)を歌っています。さらに、「コシ・ファン・トゥッテ」では、なんと彼女はこのオペラに登場する全ての女性を一人で演じきっているのです。軽い声が求められる小間使いデスピーナのアリアは「男が、兵隊が、浮気しないとお思い?」という、うぶな姉妹につまみ食いをたきつける歌。くそ真面目な長女のフィオルディリージは、せっかくアバンチュールの機会があったにもかかわらず、最後の決心が付かず「行ってしまう―あなた、どうぞゆるして」と歌うアリア。そして、姉よりははるかにさばけている次女のドラベッラは、さっさと浮気を実行に移してしまって「恋は小さな泥棒」と、あっけらかんと歌います。どうです、これだけ性格の異なる歌を、コジェナーは音色も、歌い方もまるでそれぞれのキャラクターが乗り移ったような潔さで歌い分けているのです。
もう一つ、ここでは面白い試みがなされています。彼女の本来の声のロールは、「フィガロの結婚」のケルビーノのようなズボン役でしょうが、その代表的なナンバーの「恋とはどんなものかしら」を、そのままの形ではなく、盛大な装飾を施して歌っているのです。実は、これは彼女が即興的に加えた装飾ではなく、モーツァルトと同時代のイタリアの作曲家、ドメニコ・コリという人が1810年に出版した、歌手が装飾を勉強するための教科書の中で示していた「お手本」なのです。これは、以前紹介したこんなアルバムでも取り上げられていましたね。ただ、このコリのバージョンは、いかにも「こんな装飾もありますよ」というような実例の羅列ですから、楽しんで聴く時にはちょっとくどく感じられるかも知れません。せめて「1番」だけでも何もない素のメロディで聴いてみたいと思うのは、たとえばヤーコブス盤でのキルヒシュラーガーの絶妙な「2番」以降での装飾に身を震わせた聴き手の抱く、素朴な願望でしょう。果てしない椅音の猛攻には、いかにコジェナーの歌うものとはいえ、「もういおん」と、ちょっとうんざりさせられてしまいます。
とは言っても、同じ「フィガロ」でのスザンナのアリアが、再演で歌手が変わったために新たに差し替えられたものと並べられたりしていると、それぞれを歌った2人の歌手、ナンシーさんとアドリアーナさんの違いまでも、コジェナーによって明らかになってしまうのですから、すごいものです。

by jurassic_oyaji | 2006-09-16 20:26 | オペラ | Comments(0)