おやぢの部屋2
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MAHLER/Symphony No.5




Roger Norrington/
Radio-Sinfonieorchester Stuttgart des SWR
HÄNSSLER/CD 93.165



例によって、輸入盤でありながらしっかりライナーに日本語も含まれるというノリントンのマーラー・ツィクルスです。ハンバーガーには欠かせません(それは「ピクルス」)。今回の「5番」の目玉は、「半世紀以上も失われていたアダージェットの響きが復活」というのですから、これは何をおいても第4楽章をまず聴いてみなければいけないでしょう。この楽章、演奏時間を見ると8分54秒、普通の演奏ではまず10分前後というのが標準値でしょうし、中にはハイティンクの13分台などというのもありますから、ノリントンの場合はまず思い切りあっさり、淡々と演奏していることが、これだけでも良く分かります。正直、このノンビブラートの弦楽器でコテコテに歌いまくるのは不可能、これは当然の結果でしょう。しかし、実際に聴いてみると、予想したほどの空虚な感じを受けることはなかったのは、正直意外でした。もしかしたら、肝心の盛り上がったところでは結構ビブラートが聞こえてきたのが、その原因だったのかも知れません。やはり、本当に必要なところではビブラートをかけるのが演奏家の生理、さすがのノリントンも、それを止めることは出来なかったのでしょうか。その結果、本当のノンビブラートの部分との格差が強調されて、相対的に相応の充足感を与えられたということなのでしょう。
しかし、そうは言ってみても、やはり今まで聴いてきた「アダージェット」との違いは大きなものがあります。クライマックス以外の殆どの部分で、全ての弦楽器がビブラートを取って全く同じピッチで演奏すると、まるで1本の楽器のように聞こえてきます。それが集まって、あたかも弦楽四重奏のような響きが、ここでは生まれています。それは確かに「ピュア」なものには違いありませんが、弦楽器4本のサウンドを得るためになぜ60人もの弦楽器奏者が必要になってくるのか、疑問には思えてきませんか?大オーケストラのトゥッティの弦楽器が産み出す何とも言えない質感は、実はそれぞれの楽器がほんの僅かずつ異なるピッチで演奏していることから生まれます。それには、ビブラートが果たす役割が不可欠なものになってきます。その様な魅力を知ってしまった私たちは、このアダージェットのほとんどの部分では、演奏家が多大な集中力を払って獲得したはずの「ピュア」な響きも、単なる貧弱なサウンドにしか聞こえないことになってしまいます。なんと報われない努力なのでしょう。
この楽章の最後、サスペンデッド4の和音が長く引き延ばされた後にヴァイオリンが半音下がってヘ長調に解決する瞬間に出現する響きこそは、まさに「ピュア」そのもの、その美しさは感動に値します。しかし、これを得るためだけに強いられる禁欲は、おそらく演奏者にとっても聴衆にとっても、もっと言えばこれを作ったマーラー自身にとっても耐えられないものなのではないでしょうか。あのマーラーがこんなストイックな音楽を作るなんて、到底信じられません。
ビブラートを失った「ピュア」な響きは、純粋であるだけに乱暴に扱われでもしたら簡単に壊れてしまうほどのはかないものなのかも知れません。ですから、それがオーケストラの中に置かれたときには、力強い金管楽器などの間に割って入っていくだけの度胸などは、到底湧いては来ないでしょう。そう、金管やティンパニの炸裂の中にあっても、決してかき消されることなく、輝かしく自己を主張して欲しい弦楽器が、ここでは全く聞こえてこないのですよ。聞こえてくるのは元気の有り余った金管のみ。これではオーケストラではなくブラスバンドを聴いているような思いに駆られてしまいます。
そんな、ほとんどお祭り騒ぎのような喧噪の中を音楽は進んでいきますが、終楽章ではいきなり深刻ぶった控えめな表現で始まるのが意表をつきます。しかし、それはエンディングへ向けての盛り上がりのためだけの、単なる準備に過ぎませんでした。やはり最後はとてもバランスの悪い、しかし賑やかさにかけてはこれ以上のものはないだろうという華々しさで幕を閉じます。終わるやいなやの「ブラヴォー」の大歓声(ライブです)、この瞬間、ノリントンは指揮台の上で半回転ターンをして客席を向いていたに違いありません。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-22 00:40 | オーケストラ | Comments(0)