おやぢの部屋2
jurassic.exblog.jp
ブログトップ
HANDEL/Giulio Cesare

D. Fischer-Dieskau(Bar), Tatiana Troyanos(Sop)
Julia Hamari(Alt), Peter Schreier(Ten)
Karl Richter/
Münchner Bach-Chor
Münchner Bach-Orchester
DG/00289 477 5647



1969年に録音された「ジューリオ・チェーザレ」が、初めてCD化されてリリースとなりました。4枚組ですが3000円ちょっとと、かなりお求めやすい価格です(天ザル2枚分)。
なんでも昨今は「バロック・オペラ」というものが大流行だとか、その様な隆盛を支えているのは、当時の演奏習慣を現代に蘇らせる地道な努力と、作品の中に潜む普遍的な心情を、時代が変わっても共感を得られるものに置き換えるという柔軟なアイディアなのではないでしょうか。この作品でのその一つの成果が、先日ご紹介したグラインドボーンでのクリスティの演奏でした。そこにはまさに、当時の聴衆を夢中にさせたヒットメーカー、ハンデルの姿が生き生きと投影されていました。
今回のリヒターの演奏は40年近くも前の録音、当時はそのヘンデルのオペラが現在とは全く異なる思想によって支配されていたはずです。それは、言ってみれば学校の音楽室に飾られていた「大作曲家」の肖像画のようなもの、「音楽の母」と呼ばれ、「父」の大バッハとともに揺るぎない権威の象徴として扱われていたヘンデル像を産み出した思想です。そこから導き出される音楽は、いかにその中に生命の息吹が込められていようとも、表現にあたっては決して格調の高さを失わないだけの節度が求められてくるのです。
まず序曲を聴いてみましょう。ゆっくりした部分と速い部分を持つ典型的なフランス風序曲、その最初の部分での付点音符の扱いだけで、その違いが体験できることになります。短い音符をより短くして次の音に引っかけるというのが、現在では誰でもやっていること、そこからは、いかにも粋な軽やかさが生まれます。しかし、リヒターの時代にはリズムは「楽譜通り」に演奏することが当然と考えられていましたから、今聴くと恐ろしく鈍重なものに感じられてしまいます。同じ思想は、ダ・カーポ・アリアでの最初の部分の反復で、自由な装飾を施すことも許しません(というか、そもそもそういう発想がなかったはず)から、歌手のイマジネーションの発露を心ゆくまで味わうという今のオペラハウスでの楽しみは、全く得られないことになってしまいます。
そもそもカストラートが歌っていたチェーザレを、フィッシャー・ディースカウが演じているというあたりに、決定的な時代の壁を感じずにはいられません。何ともくそ真面目なこのバリトンにかかると、第2幕で変装したクレオパトラへの思いを歌う甘いアリア「Se in fiorito ameno prato」が、とことん嘘くさく聞こえるから不思議です。オブリガートのヴァイオリン・ソロも、何とも融通の利かない四角四面の演奏に終始していますし。
クレオパトラも、グラインドボーンでのデ・ニースを知ってしまった今となっては、トロヤノスがいかに第3幕で有名な「Piangerò la sorte mia」を情感たっぷりにしっとりと歌ってくれたところで、その次の「Da tempeste il legno infranto」での浮き立つような軽やかさが全く伝わってこないことに、不満を抱くしかなくなってしまうのです。
その点、セストのシュライアーと、コルネリアのハマリは、そんな時代様式を超えたところで、真の芸術家としての力を示してくれています。第1幕の最後に歌われるこの2人のデュエット「Son nata a lagrimar」は感動的です。グラインドボーンではカットされていた第2幕の最後のセストの力強いアリアも、素晴らしいものでした。
この演奏からは、今の「バロック・オペラ」ブームとは全くかけ離れた世界を感じてしまい、そのあまりの落差に愕然とさせられずにはいられません。同時に、今から40年後にもこのブームがそのままの形で継続しているという保証は何もないということも、痛切に感じられてしまうのです。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2006-11-25 20:54 | オペラ | Comments(0)