おやぢの部屋2
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BRAHMS, REINECKE/Sonatas



Emmanuel Pahud(Fl)
Yefim Bronfman(Pf)
EMI/373708 2
(輸入盤)
東芝
EMI/TOCE-55873(国内盤 12月6日発売予定)


今年の2月にニューヨークで録音されたパユ様の最新アルバム、コンテンツはブラームスとライネッケのソナタです。ライネッケはともかく、ブラームスにフルートのためのソナタなどあったっけ、と訝しがるのも当然のことでしょう。この大作曲家は、フルートという楽器のために、協奏曲はおろか室内楽やソナタすらも、ただの1曲も作ってはくれなかったのですから。
ブラームスの時代、いわゆる「ロマン派」の頃は、実はフルートにとっては何とも寂しい時代でした。同時代の「大作曲家」シューマンにしても、フルートソロのための曲は全く作ってはいません。ヴァイオリンやピアノにはあれほどの名曲をたくさん作ってくれているのに、管楽器、特にフルートに対するこの冷たさはどうでしょう。
なぜそんなことになってしまっているのか、一つには、楽器の問題があります。テオバルト・ベームが、他の木管楽器、オーボエやクラリネットと同じように大きな音が出て、コンサートホールでも十分ソロ楽器として通用するフルートを「発明」したのはやっと19世紀の半ば頃でした。もちろん、新しい楽器が出来たとしても、それが普及し、さらにそれを演奏できる奏者が育つまでには相応の年月がかかりますから、この「モダン・フルート」が作曲家の中にきちんとした「楽器」として認知されるようになったのは、ほぼ20世紀に入ったた頃、それまでは大作曲家がベーム・フルートのために曲を作るようにはならなかったという事情があったのです。
ブラームスの場合、交響曲第1番のフルートパートでは、最高音は3オクターブ目の「シ♭」までしか使われていません。例えば第4楽章の170小節目のように、他の管楽器が「シ」を出しているのにフルートだけ(ファゴットもおつきあい)3度下の「ソ」に置き換えるというように、巧みに「出ない高音」を回避しているのです。それが、交響曲第2番になると最高音は「シ」まで延びています。おそらくこの時点で、ブラームスは新しい楽器の存在を知ったのでしょう(ちなみに、ベートーヴェンは「ラ」までしか使っていません)。しかし、その楽器にオーケストラの中での輝かしいソロを託すことはあっても(例えば、交響曲第4番のフィナーレ)、ついに単独のソロ楽器としての曲を作ることはありませんでした。
ここでパユさまが演奏しているのは、ですからフルートのためのオリジナルの作品ではありません。同じ木管楽器であっても愛着の度合いが桁外れに高かったクラリネットのためのソナタを、フルートで吹いているのです。このような「トランスクリプション」は、この時代のレパートリーの少ないフルートでは良く行われることです。特に、ヴァイオリンのための曲をフルートで吹くというのは、意欲的な演奏家であればもはや殆どなんの抵抗もなく取っている方策になっています。
しかし、このフルート版クラリネットソナタ、なぜかオリジナルの持つ深い肌触りが殆ど伝わってこないのが気になります。そんな、殆ど拭いがたい違和感が生まれるのは、もしかしたらこの2つの楽器の間には、単に音域や音色だけではないもっと根元的な違いが横たわっているせいではないのでしょうか。それは、表現としてのビブラートの有無です。クラリネットには、クラシックの場合まずビブラートをかける演奏家はいません。そこからは、何とも言えぬ骨太で重厚な、まさにブラームスが作る音楽そのものの肌合いが生まれてきます。しかし、現代のフルートではビブラートは表現の上での重要なファクターになっていますから、それをかけない演奏など考えられません。ヴァイオリンと同じようにたっぷりとしたビブラートこそは、まさにカンタービレとエスプレッシーヴォを産む源とされるのです。
したがって、このブラームスのソナタは、おそらくオリジナルに慣れ親しんだ人にとっては全く別の趣味の入った音楽のように聞こえることでしょう。しかし、そこまでしてブラームスのパトスをフルートで表現したがったパユ様の熱意は、もちろん存分に味わうことは出来ます。
逆に、元々フルートのための作品であるライネッケの「ウンディーヌ」で、ごく当たり前の情感しか表れてこないことの方が、深刻な問題のように思えます。いずれの曲に於いても、旋律楽器であるフルートよりも、ブロンフマンのピアノの方にさらなる豊かな歌心が感じられるのは、パユ様のリーダーアルバムとしては物足らないところなのではないでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2006-11-29 00:04 | フルート | Comments(0)