おやぢの部屋2
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GODÁR/Mater
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Iva Bittová(Voice)
Marek Stryncl/
Solamente Naturali
Bratislava Conservatory Choir
ECM/476 5689
(輸入盤)
ユニバーサル・ミュージック
/UCCE-2057(国内盤)


アルヴォ・ペルトの「タブラ・ラサ」でスタート、ペルトの名を一躍世界中に知らしめることとなったECMの「ニュー・シリーズ」の最新リリースは、スロヴァキアの現代作曲家ヴラディミール・ゴダールの作品集です。1956年生まれのゴダールは、映画音楽なども多数手がけている作曲家、いかにもECM向きの親しみやすい曲調を持っています。
このアルバムで全ての曲にフィーチャーされているのが、イヴァ・ビッタヴァーという女声ヴォーカルです。ゴダールはこの方の声にインスパイアされてこれらの曲を作ったといいますから、もちろん彼女に歌われることを前提とした作品が、ここには収められていることになります。彼女の声は、クラシック風の「ベル・カント」からは最も遠いところにあるもの、それは「民族的」という範疇で語られるべきものなのでしょうが、それと同時に彼女でなければ出せない独特の「味」のこもったものです。これらの曲の場合には彼女が歌うことによってのみ、曲の正しい(あるいは作曲者が想定した)姿が現れるという、そういう意味でもクラシックからは距離を置いたものです。そう、例えば、「クイーン」でのフレディ・マーキュリーのパートをポール・ロジャースに置き換えたところで、決してファンは満足しないというロック・ミュージックにも通じる、「持ち運びの出来ない(武満徹)」音楽として、彼女の声は存在しているのです。その様なキャラクターと、クラシック音楽のルーツであるルネッサンスやバロックの音楽を、同時に進行させる(作曲者は「ポリ・スタイリスティック」と言っています)というところが、とりあえずこのアルバムに現れているゴダールの「作風」です。
「マイコマシュマロン」というタイトルの曲で始まったとき、誰しも彼女のその特異な声の魅力にまず注目することになることでしょう。ヴィオラとチェロという薄いバックに乗って、「東欧」と言うよりは、「イスラム」、あるいは「ケルト」といったカテゴリーの方がぴったりするような、地声による独特のコブシとビブラートが淡々と響きます。何となくそれが私たちにも馴染みがあると感じられるのは、我が「演歌」に通じるようなものさえ、そこには漂っているからなのかもしれません(そんなこと言ってええんか?)。
「マニフィカート」という曲は、もちろんあのラテン語のテキストをスロヴァキア語に訳したものが歌われます。3つの部分に分かれていて、最初と最後がビッタヴァーのソロ、ハープの低音と弦楽器のドローンの中に、あまたの同名の曲とは全く趣の異なるテイストのヴォーカルが流れます。中間部は全く別の世界、ここでは普通の西洋風の発声をしている合唱団が「マニフィカート」と繰り返す中で、弦楽器が極めてショッキングな不協和音のパルスを幾度となく打ち込みます。もっとも、驚くのは最初だけ、次第にそのパターンが分かってくると、それは心地よいアクセントに変わります。これと同じ手法が、その少し後に出てくる、このアルバムのタイトルともなった「スターバト・マーテル」で使われているのは、アルバムとしてのコンセプトなのか、作曲家の手の内の少なさが露呈された結果なのかは、分かりません。
Ecce Puer(この子供を見よ)」という、ジェームス・ジョイスの英語の歌詞による曲は、チェンバロやキタローネまでも入った「バロック風」の伴奏が、「AmGFE7」という(実際のキーはDmですが)ありふれた循環コードを延々と繰り返します。これも、作曲者により、あくまでもモンテヴェルディからの引用だということが強調されています(もちろん、そんなことはライナーを読まない限り分かりません)。「レジナ・チェーリ」は、もろヘンデルかヴィヴァルディのオケになっています。その中で、ソリストはちょっと力んだ歌い方をしていますから、それは限りなく「演歌」に近づきます。ヘンデルをバックにした演歌、これは笑えます。最後に、リプリーズとして冒頭の「マイコマシュマロン」が、全く異なるコブシによって歌われます。これこそが、譜面にあらわすことの出来ない「非クラシック」を象徴する出来事なのでしょう。
ペルトに飽きた人にはこのゴダールがお薦めです。しかし、この音楽はペルト以上に飽きられてしまうのが早いかもしれません。
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by jurassic_oyaji | 2006-12-23 20:41 | 現代音楽 | Comments(0)