おやぢの部屋2
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Piccolo Tunes
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Peter Verhoyen(Pic)
Stefan De Schepper(Pf)
ET'CETERA/KTC 1296



「ピッコロとピアノのためのオリジナル作品集」というサブタイトルが付いているように、編曲ものではなく最初からピッコロのために作られた曲を集めたアルバムです。殆どが21世紀になってから作られた「新曲」であるというのが、そそられます。演奏しているのは、ロイヤル・フランダース・フィルのピッコロ奏者、ペーター・ヴェルホイエン(と読むのでしょうか。オランダ系の表記は苦手)です。
オーケストラの中では、ピッコロという楽器は実に華々しい役割を担っています。曲のクライマックスで他の楽器たちがどんなに大きな音を出していても、ピッコロの甲高い音はまるで全てのものを見下ろすかのように、輝かしく響き渡ります。それは、あたかもオーケストラの全ての栄光を一手に引き受けているようにすら、聞こえます。
しかし、そんなピッコロもソロ楽器としては必ずしも親しまれているものとは言い難いところがあるのは、紛れもない事実でしょう。低音はいかにも「木管」という感じの素朴な音色ですが、フルートの低音ほどの力はありません。最も美しく聞こえるのは中音ですが、かなり注意しないと音程がいい加減なものになってしまいます。そして、高音は、それだけ聴いてしまうとあまりに目立ちすぎて刺激が強すぎます。よほどのマニアでない限り、この分野には足を踏み入れない方が無難なのでは、というのが一般的な評価でしょう。
しかし、現代の作曲、そしてピッコロの演奏の才能は、そんな制約の多い楽器にも確かな喜びを見いだせるような素敵な曲を産み出してくれました。まずは、自身もフルーティストであるヒット・メーカー、ゲイリー・ショッカーの「ソナタ」(2005)です。これは、ピッコロの素朴な音色と音程を逆手にとって、ちょっと古風なテイストを演出しているという聴きやすい曲です。あくまでメロディを大切にして、その間に先鋭的なものを挟むといういかにも彼らしい作品に仕上がっています。最後の「ミニ・チキン」という速いパッセージのユーモラスな曲で、ピッコロのキャラが存分に発揮されています。
マイク・モウアーという人の「ソナタ」(2001)は、この人のフィールドであるジャズのイディオムが存分に盛り込まれたものです。殆どインプロヴィゼーションのような技巧的なひらめきが、存分にエンタテインメントとして楽しめます。同じように、クラシック以外の分野で活躍しているマルク・マティスという人の「エコーズ」(2006)という作品も、肩肘を張らずに楽しめる仕上がりになっています。小さなパターンの積み重ねという、ポップ・ミュージックの定石をうまく生かした語り口が魅力的、特に後半の5拍子によるテーマが何度となく繰り返され、その間に「間奏曲」が入るという部分は、おそらくこのアルバムの中では最も光っているものではないでしょうか。チック・コリアの「ブラジル」のようなテイストが入っているのが、そう思わせられる「わけ」なのかもしれません。
やはりフルーティストのレイモン・ギオーが作った「Onivatto」という曲は、タイトルがピッコロのイタリア語「Ottavino」を逆に読んだもの、おそらく曲の中の音列にも、その様な仕掛けが施してあるのでしょうが、そんな厳格さよりは生理的な楽しみが前面に出てきているので、退屈することはありません。それは、このアルバムのソリストによって委嘱されたヤン・ヒュイレブロック(オランダ系の表記は苦手)の作品のように、作曲と演奏の技巧にのみ圧倒される一歩手前で踏みとどまっています。
残りの曲は、フランス6人組のオーリック、ミヨー、プーランクが作った、ピッコロの前身であるファイフ(マネの「笛を吹く少年」という絵でお馴染み)のためのもの、いかにも瀟洒なたたずまいを、この楽器から引きだしています。ちょっと匂いが残りますが(それは「ガーリック」)。
ヴェルホイエンの演奏は、どんな難しいパッセージでも破綻のないテクニックと、ピッコロの可能性を信じ切った歌い口で、見事にこの楽器の魅力を伝えてくれています。ピアノのデ・シェッパーも、特にリズムの面で確かなサポートを見せていました。
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by jurassic_oyaji | 2006-12-30 22:18 | フルート | Comments(0)