おやぢの部屋2
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MOZART/Zaide, CZERNOWIN/Adama
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Mojca Erdmann(Zaide), Topi Lehtipuu(Gomatz)
Johan Reuter(Allazim), Renato Girolami(Osmin)
John Mark Ainsley(Sultan Soliman)
Basler Madrigalisten
Claus Guth(Dir)
Ivor Bolton/Mozarteum Orchester Salzburg
Johannes Kalitzke/
Österreichisches Ensemble für Neue Musik
DG/00440 073 4252(DVD)



モーツァルトが24歳の時のオペラ「ツァイーデ」は、未完の作品です。実はタイトルすらも付けられてはおらず、「ツァイーデ」というのは単に主人公の名前を持ってきただけの話、かつては「後宮」などというタイトルもありました。そう、これは、その2年後に作られることになる「後宮からの誘拐」の、プロトタイプのような出自を持ったものなのでしょう。一応ドイツ語のテキストによるジンクシュピールとして作られてはいますが、序曲すら残されてはおらず、あるのは15曲のアリアや重唱という断片だけ、物語を進めていくセリフもありませんから、正確なプロットも分かりません。とりあえず、後宮に奴隷として捕らえられているゴーマッツが、皇帝ゾリマンの寵愛を受けているツァイーデと恋に落ち、家臣アラツィムの助けを借りて逃げ出そうとしますが、あえなくゾリマンに捕まり死刑を宣告される、というのが大まかなあらすじだと分かる程度のものです。
したがって、これを上演なり録音する時には、何らかの方法で足らない部分を補う必要が出てくるのは当然のことです。例えば2001年に録音されたコープマンのCD(BRILLIANT)では、ナレーターがアリアの間に物語を解説する、という方法をとっていました。今回のザルツブルク音楽祭でのオペラ全作品の上演という特別な機会にあたって、その様な断片をつなぎ合わせて一つのきちんとした物語にするように委嘱を受けたのは、1957年生まれのイスラエルの作曲家ハヤ・チェルノヴィンでした。もちろん、彼女の作風を考えれば、それが単なる「つなぎ合わせ」だけの作業に終わるはずはありません。彼女が作った部分は新たに「アダマ」というタイトルを持つ全く別個の作品として成立するものになっていました。このタイトル、ジャケットでも分かるように大きなあだま(頭)のかぶりものが登場するから付けられたものでは決してなく、ヘブライ語で「地球」を意味する言葉なのだそうです。
会場のランデステアターのオケピットには、ボルトンの指揮するモーツアルテウム管弦楽団が入っていますが、これは「ツァイーデ」の音楽だけを演奏します。「アダマ」を担当するのはステージの上、扉の陰に位置しているカリツケの指揮するオーストリア現代音楽アンサンブル、歌手もそれぞれの曲に別の人が割り振られています。最初に始まるのは「アダマ」のパート、電子音が加わり、PAの施されたほとんどSEのようなサウンドが繰り出される間には、ステージ上にプロジェクターでなにやら凄惨な映像が映し出されます。そこで歌われる歌は、テキストのシラブルだけを抜き出したような鋭角的な言葉に、かなり偶然性の高い要素が加わったほとんど「叫び」のようなもの、そこにはそれに続いて演奏されるモーツァルトの音楽との共通点はなにも見いだせません。
「ツァイーデ」のパートも、「アダマ」とオーバーラップするような形で進行します。それはもちろんモーツァルトが作ったものがそのまま演奏されているのですが、そこで展開されているストーリーは「アダマ」の雰囲気をそのまま引きずったようなとことん暗いもので、「後宮からの誘拐」で描かれるハッピーエンドの要素など、気配すら感じられません。終始体を震わせながらおびえまくっているゴーマッツ、ヒステリックに叫び続けるツァイーデ、まるでロボットのような仕草で無意味に動き回るアラツィム、そして仕上げは、最初は「頭」をかぶって「アダマ」パートとして登場するゾリマンでしょう。自ら血糊を塗りたくり、ひたすら「死」を叫び続ける様は凄惨そのものです。ちなみに、この役を演じているエインズレーは、この「M22」の「女庭師」のベルフィオーレ役でも、食虫植物に喰われて血まみれになるという設定、ザルツブルクは彼に何という因縁を与えたのでしょう。
時間にして4割を占める「アダマ」、そのインパクトと強烈なメッセージで、本家の「ツァイーデ」の音楽があたかも「サンプリング」されたものが挿入されているような印象を受けてしまいます。そして、おそらくそれは制作者の目論見通りの成果だったに違いありません。カーテンコールでチェルノヴィンが登場した時に彼女へ向けられたブーイングは、フツーにモーツァルトを味わいたいと思っていた聴衆の、切なる思いの現れだったのでしょう。
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by jurassic_oyaji | 2007-02-26 20:41 | オペラ | Comments(0)