おやぢの部屋2
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MOZART/La Clemenza di Tito
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Jonas Kaufmann(Tito)
Vesselina Kasarova(Sesto)
Malin Hartelius(Servilia)
Eva Mei(Vitellia)
Liliana Nikiteanu(Annio)
Jonathan Miller(Dir)
Franz Welser-Möst/
Chor und Orchester der Oper Zürich
EMI/377453 9(DVD)



2005年6月のチューリッヒでの「ティートの慈悲」のプロダクションがDVDになりました。ザルツブルクの「M22」が、実質的には2003年のプロダクション、しかも、DVDではその2003年のものしかリリースされていませんから、これが「最新」の「ティート」のステージということになるのかもしれません。ユニークなのは、すべてのレシタティーヴォ・セッコが台詞として語られている、という点です。このアイディアが演出サイドのものなのか、演奏サイドのものなのかは分かりませんが、単に台詞にするだけではなく、かなり大幅なカットもなされていますから、演奏時間がかなり短くなっています。ふつうは2時間半以上かかり、DVDも2枚組となっているものが、正味2時間、1枚のDVDに全曲が収まっています。従って、お値段も2500円程度と、かなりリーズナブルです。
この作品は「オペラ・セリア」ですから、そもそも地の台詞などというものは存在しないのでしょうが、このジョナサン・ミラーの演出のように時代を現代に置き換えたものでは、そのような「時代がかった」セッコは逆に違和感があるのではないかと思えるほど、この措置はごく自然に馴染んでいます。「モーツァルトが作った部分ではないから」というのがその理由なのだそうですが、もしかしたら、これからは演出的な要求からこのような形にするケースも出てくるかもしれませんね。実際、「台詞化」の効果は絶大なものがあり、物語の進行は実にテキパキと感じられて、このような作品では少なからず味わってしまう退屈感などは全くありませんでした。
あるいは、ミラーの演出プランのベースは、そのようなサラッとした流れの上にあったのではないかと思えるように、登場人物たちは淡々とした動きに終始しています。あのザルツブルクのクシェイのくさい演出では、広いステージを全力で走り回らされていたのとは全く逆の、それはある意味様式的な所作であったのかもしれません。第1幕の幕切れも、カタストロフィーを実際に見せるわけではなく、ごく控えめな照明だけでその雰囲気を感じさせるにとどまっているというのも、そんな様式感のあらわれなのでしょう。ですから、ここでは劇場でのオペラというよりは、まるでコンサートホールでのコンサートのような、純粋に音楽を楽しめる環境が整えられているような気さえしてきます。
そのようなプランの上では、カウフマンのティートはまさに理想的な輝きを放っています。ヘルデン・テノールと言っても差し支えないようなその力強い声は、いっさいの甘さを廃した決然としたものを感じさせてくれます。ですから、彼の有名な20番のアリア「Se all'impero, amici Dei」の後半に現れるコロラトゥーラで多少のもたつきを感じさせるのも、逆にその部分が音楽的にリアリティを欠いているせいなのではないかとさえ思えてしまえるほどです。
そうなってくると、セスト役のカサロヴァに、完璧なテクニックと申し分のない説得力で(19番の「Deh per questo istante solo」など、ため息が出るほど素敵です)歌われれば歌われるほど、このプロダクションの中での居心地の悪さを感じてしまうのは、ちょっと贅沢な不満なのかもしれません。
ヴィッテリアのメイは、衣装を微妙に変えることによって、1幕での悪女ぶりから、2幕での罪を悔いる女に変化するさまを表現しています。まるで、ザルツブルクでのレシュマンのような暑苦しい演技がなくても、それは十分に伝わることを示しているかのように見えます。
ウェルザー・メストの指揮によるチューリッヒのオーケストラは、ホルンやティンパニなどにオリジナル楽器を使用して、メリハリのある音楽を作り出していました。それは、特に奇抜な読み替えも行わず、荒唐無稽で大時代的なプロットにあえて逆らおうとはしなかったミラーの意図に見事に合致していたのではないでしょうか。
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by jurassic_oyaji | 2007-06-12 23:36 | オペラ | Comments(0)