Members of the Nationaltheater Mannheim
GENUIN/GEN 86078
昨年の「モーツァルト・イヤー」の残渣は、まだまだそこら辺に散らばっていた
ざんす。タイトルでもお分かりのように、これはモーツァルトの「魔笛」によるリミックス・アルバムです。「リミックス」という概念をクラシック的にどのように捉えるかは大問題ですが、ここでは、とりあえず現在の作曲家が、モーツァルトの「魔笛」をモチーフにしてその腕をふるった作品を集めたもの、と言うぐらいに受け取っておきましょうか。
集められている曲は、マンハイムの国立劇場がそんなコンセプトで「今」の作曲家に委嘱したものですが、実はそれは今から
50年前の「生誕
200年」の時に行われたものが前例となっています。その時に「『魔笛』を使って、なにか曲を作ってくれないか」という委嘱を行ったのは、当時の「現代音楽」の一つの中心であった「ドナウエッシンゲン音楽祭」でした。その委嘱に対して多くの作曲家は快い返事はよこさなかったといいます。あのピエール・ブーレーズあたりは、「俺とモーツァルトとの共通点といったら、名前に『
z』という文字が1個ある(
Mozartと
Boulez)ということだけだろう」と、むげに断ったということです。
それから
50年経った
2006年にはこうして8人もの「現代作曲家」が曲を寄せるようになったのは、それだけ、モーツァルトとの距離感が変わってきたということなのでしょうか。ただ、いったいどこが「魔笛」なのか、という、注文の趣旨を完全にはき違えているものが殆どというのが、いつの世でも自意識の強い「作曲家」という人種の有り様を浮き出したものになっています。
そんな中で、ディーター・シュネーベル(
1930-)の「
Ein Mädchen oder」や、トーマス・ヴィッツマン(
1958-)の「
Pamina-Projection」などは、それぞれ「元ネタ」がはっきり提示された上でのコラージュという形をとった、いわば「古典的」な手法で、楽しむことができます。ヴィッツマンの曲はCDエクストラで映像バージョンも収録されているのですが、その映像の方がよほど難解に感じられてしまいます。
カローラ・バウクホルト(
1959-)の「
P.S.」という曲は、フルート1本のソロ・ピースです。前半は息音などをそのままSEのように使った「前衛的」な作風が刺激的。これを聴いて大量の水が流れている情景を思い浮かべてしまったのは、最近見た映画版「魔笛」のせいなのかもしれません。そこでは、タミーノが「水の試練」を受ける時に、濁流の中を流される、というシーンがありましたっけ。後半は短い音型を、キーの音と一緒に繰り返すというもの。吹きながら演奏者がマイクから遠ざかっていって、フェイド・アウトするという演出です。まるで試練を乗り越えることができなかったタミーノがすごすごと去っていくような気にさせられてしまいます。もちろん、この中には「魔笛」のアリアの断片などは一切現れることはありません。
もう1曲、ウケたのは、ペーター・アプリンガー(
1959-)という人の「
Weiß ist schön」という、サンプリングが用いられている曲です。1970年代に黒人の権利を主張したアンジェラ・デイヴィスという女性の演説をそのまま流すのと同時に、まるでメシアンのようにその語りのリズムとメロディを模倣してそれにハーモニーを付けてピアノで演奏するという手の込んだものです。これは物語の中に差別されるものとして登場するモノスタトスからの連想なのでしょうか。それでタイトルが「白は美しい」ですからね。
このアルバムを聴けば、まだまだ世の中にはとんがった作曲家が健在なことを知り、ひとまずの安心感は得られることでしょう。