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BACH/Goldberg Variations
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西山まりえ(Cem)
ANTHONELLO MODE/AMOE-10003



まるで、新手のアイドル・ピアニストを大々的に宣伝しているような安っぽいジャケットですね。このアーティストのことを知らなければ、心あるリスナーは間違いなくスルーしてしまうことでしょう。今月号の「レコード芸術」でも、大々的に紹介されている西山さん。彼女のバッハに対するアプローチにはかなり興味が湧いていたところですから、ちょっと前にリリースされた「ゴルトベルク」を聴いてみました。
常々、バッハの演奏に関してはさまざまなスタイルのものを聴いていましたからある程度のことでは驚かないようにはなっていたのですが、この演奏には本当にびっくりしてしまいました。西洋音楽の基本であるはずの「きちんと揃える」とか「テンポはしっかり守る」などという約束事は、ことごとく破られているのですから。最初の「アリア」にしてからが、右手と左手は全く「揃う」ことはありません。まるで楽器を始めたばかりの初心者が手探り状態でやっと両手で弾いている、といった感じなのですよ。しかし、そこからはそんな拙さなどは全く感じることはできず、右手と左下が繰り広げるたくさんの声部が、それぞれ自由に自分の「歌」を歌っているように聞こえてきたのです。
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そういえば、この曲の楽譜って、見たことがありますか?実はライナーにも初期の印刷譜が載っていますし(↑)、現代の印刷譜でも十分分かることなのですが、バッハはとにかくたくさんの声部をその中に書き込んでいます。「アリア」の出だしの左手は、「ソシレ」という分散和音なのですが、それは「ソ-シ-レ」というメロディではなく、「ソ」、「シ」、「レ」という3つの音がそれぞれ別の声部として登場するようになっているのです。そんな感じが、彼女のこの演奏だとすごくよく分かってきます。それぞれのキャラが、全く違うのですよ。
テンポだって、きっちり拍を均等に、などということは全く考えていないように聞こえます。十六分音符は四分音符の中に4つ入るといったような数学的な扱いではなく、楽譜の形を見て早く感じるところは早く弾く、みたいなところがたびたび出てくるのです。ある意味、イマジネーションというか直感のようなものを大切にして、「楽譜」ではなく「音」として聴いてもらいたいという、クラシックではなくポップスのミュージシャンのようなセンスを感じてしまうのです。そういえば、彼女が活躍していたフィールドはバッハよりずっと前の、中世あたりまでさかのぼった時期の音楽だったはず、その頃はまだ楽譜に縛られない生き生きとした音楽は健在だったのでした。そんなセンスが全開なのが、第10変奏の「フゲッタ」です。フーガ主題のそれぞれのパーツが、本当に生きているようにさまざまな主張を行っているのが、見事に伝わってきます。
ここで彼女が弾いているチェンバロは、18世紀のフランスの楽器のコピーのようですが、その音にもちょっとびっくりさせられてしまいました。そんなヒストリカル楽器のイメージからははるかに遠いところにある、極めて強靱な音が聞こえてきたからです。しかし、聴き進うちに、そこにはとてつもない繊細さが宿っていることに気づかされます。しかも、その表情の多彩なこと。フレーズの最後が高い音で終わるときにも、その音は無神経に目立つことはなく、音色までも柔らかくなって見事にフレーズが収まっているように聞こえてくるのです。これが楽器のせいなのか、彼女の奏法によるものなのかは分かりませんが(おそらく、双方の要因がからんでいるのでしょう)これはちょっとすごいことですよ。
こんな素晴らしいアルバムなのに、このジャケットのせいで目もくれないでしまう本当のクラシック・ファンがいるのではないかと、心配になってしまいます。まっとうな演奏家にさそうあきらは完璧に似合いません。裏ジャケの時間表示にもミスがありますし。
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by jurassic_oyaji | 2008-02-26 23:21 | ピアノ | Comments(0)