Soloists
Antoni Wit/
Warsaw National Philharmonic Choir and Orchestra
NAXOS/8.570450
ペンデレツキの「7つ目」の交響曲である、「交響曲第8番」の、世界初録音です。なぜひとつ抜けているかというと、「第6番」がまだ完成していないからなのです。その曲を委嘱したところは、さぞややきもきしていることでしょう。ペンデレツキ自身も、亡くなるまでには完成しないことには、あのモーツァルトの二の舞になってしまいます。その時ジュスマイヤーのように代筆をかってでるのは、果たして誰なのでしょう。
このレーベルは、輸入盤でありながら国内の代理店が殆ど国内盤のノリでリリースしてくれていますから、普段はそれを買っているのですが、たまたま検索で並行輸入しているところを見つけ、即ゲットです(
へえ、こんなに早く出てたんだ)。前作、第7番の場合は、およそ「交響曲」という概念からは遠いところにある外観を持っていました。主役はオーケストラよりも声楽のソリストや合唱、殆ど「オラトリオ」と言えるような体裁だったのです。その路線はこの8番でさらに顕著になります。
2005年にルクセンブルクで初めて聴衆の前に現れた最新の交響曲が、こんなに早くCDとして入手できたため、全部で
12の楽章から成るこの「交響曲」は、殆ど「オーケストラ伴奏付きの歌曲集」といった趣であることを知るのです。副題が「はかなさの歌
Lieder der Vergänglichkeit」、それはアイヒェンドルフ、リルケ、ゲーテ、そしてヘルマン・ヘッセといった「あの時代」の詩人たちのテキストを持ったものでした。
確かに、そんな形の「交響曲」が今までなかったわけではありません。マーラーの本来ならば9番目の「交響曲」は、まさにそんな限りなく「歌曲集」に近いものでした。ペンデレツキがその事を意識していたのかどうかは知るよしもありませんが、この交響曲がまるでその「大地の歌」に酷似した音楽として聞こえてきたことには、殆どの人が驚きを隠すことは出来ないことでしょう。いや、何も聞かされないで初めてこの曲を聴いたとしたら、間違いなく「これ、マーラーの曲だよね」とつぶやくに違いありません。メロディ・ライン、オーケストレーション、歌とオーケストラとのからみ具合、そしてほんのちょっとしたきっかけにまで、紛う方なきあのマーラーの語法で満ちあふれているのですからね。その歌を一緒に口ずさんでみてごらんなさい。間違いなく次の音が予想できる展開に、唖然とすることでしょう。
これは一体何のつもりなのでしょう。もしかしたら、マーラーのパロディ?あるいは、最近は「ネオ・ロマンティシズム」という方向で自らの芸術を磨き上げていた作曲家が最後にたどり着いたのがマーラーの世界だったのだ、とか。その答えは、唯一マーラーに由来していない曲全体のエンディングで明かされているのかもしれません。合唱がグリッサンドで果てしなく上昇していった先にあるもの、それは果たして・・・・。
カップリングの「ダヴィデの詩篇から」という、合唱と打楽器やピアノのアンサンブルの曲は、
1958年という、彼の最初期の作品です。これも、別な意味での驚きを招くものでした。これを聴いてみると、彼は実にしっかりした合唱の扱いを先人から学び取っていたことが良く分かります。もう少し後の彼に比べると、なんと整然とした音楽なのでしょう。例えば3曲目の詩篇
43などは、カール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」のシンコペーションと変拍子をそのまま受け継いだような仕上がりになっていることにも気づくはずです。そして、もしかしたら彼の「正体」はこのあたりに潜んでいたのではないか、という思いにも駆られるかもしれません。
従って、このアルバムの中で最も「ペンデレツキ風」であるべき「怒りの日」を聴くとき、なんとも居心地の悪い感触が漂うのはある意味当然の成り行きなのかもしれません。「おまえはいったい何だったんだ!」と叫びたくなるような、この見事なラインナップに盛大な拍手を。