おやぢの部屋2
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MOZART/I Concerti per Flauto e Orchestra
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Luisa Sello(Fl)
Romolo Gessi/
Orchestra Milano Classica
STRADIVARIUS/STR 33761



まるで、あのシャロン・ベザリーのように、床に寝そべっている女性フルーティストの写真が使われている、ちょっとギョッとするようなデザインのジャケットです。ベザリーの場合はとりあえず「美人」ですから許せますが(あ、ジャケットが、という意味ですよ)、このセッロという弦楽器みたいな名前(それは「セロ」、ってそんな言い方をするのは宮沢賢治だけですが)の方の場合ははっきり言って年をとりすぎ、別のアングルのものがケースの中にありますが、これなどはまるでたった今「ご臨終です」と告げられたばかりの人みたいで、ちょっとブキミですらあります。ご本人が、ただ寝っ転がっているだけでさまになる容姿と体型だと思っているのでしたら、これはかなり惨め。
でも、もしかしたらこんな醜悪なジャケットには、中身の音楽の美しさを敢えて隠すための意図が含まれているのかもしれません。だとしたら、それはかなりシュール。つまり、この悪趣味なジャケットと、聞こえてきた音楽とのあまりの隔たりに、一瞬言葉を失ってしまったというわけでして。
収録曲は、モーツァルトの2曲のフルート協奏曲と、「アンダンテ」です。最初に演奏されているのが有名な方のニ長調の協奏曲。このイントロが軽快に流れてきたときに真っ先に感じたのは、これは紛れもないイタリアの音楽であるということでした。そうなのですよ。確かにモーツァルトはドイツ・オーストリアの音楽家としてとらえられてはいますが、彼が求めていたのは何と言っても当時の先進地イタリアの音楽だったのです。特に、協奏曲のような形態はまさにイタリアが生んだものですから、そのような趣味になるのは当然のことでしょう。ところが、なぜかそのようなあまりに明るすぎるものは、世の中に受け入れられることがありません。そうではなく、もっと「ウィーン的」なものが、モーツァルトにとっては標準的なものであるとの認識が、広く蔓延しているのではないでしょうか。少なくともドイツ人、そしてドイツの音楽を盲目的に取り入れてきたこの国の人たちにとっては、こんなノーテンキなモーツァルトは受け入れがたいものに違いありません。
ガッツェローニなどに師事したイタリアのフルーティスト、ルイーザ・セッロは、そんなオーケストラの軽快さに乗って、とてつもなく明るい音色のフルートで、まさにイタリアの協奏曲の世界を繰り広げています。どこをとっても音楽の喜び、楽しさに満ちあふれた、それはまるで太陽が燦々と降り注ぐような光景を思い起こさせるものでした。真ん中のゆっくりとした楽章では、その楽しい思いはのびのびとした情感となります。ト長調の方の協奏曲でのその楽章は、バックのオーケストラの管楽器がオーボエからフルートに代わるというのが本来の姿なのでしょうが、ここではオーボエのまま、変な小細工よりもソリストを引き立てる方が大事だといわんばかりの、ある意味豪快な解釈です。
ここで彼女は、全てのカデンツァを自作のものを使って演奏しています。そのセンスは、変にロマンティックで技巧に走ったものでもなく、かといってバロック的な面を強調しようというアナクロなものでもありません。あくまでモダン・フルートの響きの美しさを最大限に発揮するような、愛らしい楽想のものばかりです。小難しいことを言う前に、まず楽しい音楽をやろうじゃないか、という演奏家の気持ちがそのまま音になったような、それはフルーティストにとっては魅力的なカデンツァたちです。
セッロおばさんの開き直りとも思えるようなジャケ写は、そんな彼女の音楽に潜むユーモラスな一面を現したものだったのかもしれませんね。外見では負けていても、音楽ではベザリーに勝ってます。
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by jurassic_oyaji | 2008-03-12 00:17 | フルート | Comments(0)