おやぢの部屋2
jurassic.exblog.jp
ブログトップ
MAHLER/Symphony No.1
c0039487_20574491.jpg



Valery Gergiev/
London Symphony Orchestra
LSO LIVE/LSO0663(hybrid SACD)



ゲルギエフとロンドン交響楽団とのマーラーシリーズ、第2弾です。番号が雷に打たれているようなジャケット・デザインはこの前の「6番」と共通していますから、こんな感じで全曲が揃うのでしょうね。雷と言うよりは、造影剤を入れて撮影した血管のような感じがするのが、ちょっとブキミですが。
最近のこのレーベルのフォーマットに従った、ライブ録音のSACD、録音スタッフも今までと変わってはいませんし、ホールも前と同じバービカンなのですが、なにかオケの音がいつもとは異なって聞こえてくるのが非常に気になります。屋外でもないのに(それは「ピーカン」)。弦楽器、特にヴァイオリンが、とてもバランスの悪い聞こえ方なのですよ。これもこのレーベルの常で、ブックレットにはその演奏のメンバーがきちんと書いてあるので、それによって、ファースト・ヴァイオリンが16人というたっぷりした陣容であることが分かりますが、とてもそんなにたくさんで弾いているとは思えないような、チープな音しか聞こえてはきません。
これはおそらく録音のせいではなく、ゲルギエフが求めたバランスなのだと思いたいものです。そうであれば、曲全体を覆っている救いようのないほどの「暗さ」も理解できることでしょう。例えばフィナーレの冒頭、まさに「雷」から始まって荒れ狂う「嵐」のような激しい情景がひとしきり続いた後に、場面がガラリと変わったところには、スコアに「思い切り歌って」という表記があるのですが、そこの主役であるヴァイオリンはなんとも慎ましやかにしか聞こえてきません。しかも、彼らはほとんど「歌って」はいないのですよ。正直、それは「泣いて」いるかのようにさえ聞こえるほどです。また、第3楽章の中間部、「さすらう若人の歌」からの引用の部分も、フルートの醸し出す透明な世界とは裏腹に、弦楽器はなんとも行き場のないような暗さに支配されていることを感じないわけにはいかないことでしょう。
ただ、その楽章の冒頭で、普通はコントラバス1本ではかなげに演奏されることの多い「フレール・ジャック」のパロディが、トゥッティのコントラバスによって弾かれているのには、注目すべきではないでしょうか。確かに楽譜のこの部分には「SOLO」という指示が書き込まれてはいます。しかし、1992年にマーラー協会から発行されたザンダー・ウィルケンスの校訂による新しいスコアには、「注釈」として、「1本のコントラバスではなく、コントラバス群によるソロ」という記載があるのです。これは、演奏家にとってはかなりショッキングな宣言には違いありません。今まで演奏の拠り所としていたものが、「実はまちがいだった」と根本から否定されてしまったのですからね。事実、この楽譜が公になってかなりの年月が経ったにもかかわらず、この「コントラバス群によるソロ」を採用している指揮者は極めて少ないのではないでしょうか。コンサートではここを全員で弾いた、というような噂は何度か聞いたことがありますが、きちんとしたCDでそれを耳にするのは、これが初めてのような気がします。
今までこの部分を「一人の」奏者が弾いていたものを聴いていたときには、確かにどんな名手が演奏しても一抹の危うさが漂っていたものです。それはマーラーが求めていた不安げな情感を表現した手段なのだ、とさえ言われていました。しかし、ここでゲルギエフがとっている、あくまで弦楽器に貧相な表情をさせる、というコンセプトの中で、この部分が「全員」によって弾かれると、その不安な面持ちがかえって増強されているようには感じられないでしょうか。ロンドン交響楽団のコントラバス・セクションによるユニゾン、そこには、確かに恐ろしいぐらいの「不安」が宿っていました。
[PR]
by jurassic_oyaji | 2008-06-25 20:58 | オーケストラ | Comments(0)