おやぢの部屋2
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DVORÁK/Symphony No.9
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Marin Alsop/
Baltimore Symphony Orchestra
NAXOS/8.570714



オールソップとボルティモア交響楽団が開始したドボルジャーク・ツィクルスの第1弾です。国内盤での発売は8月の予定なのですが、すでに外国ではリリース済み、なによりもこちらでもう解禁になっているのですから、CDが手に入る前に聴いてみたっていいでしょう?ですから今回は、おそらくこれからもあるかもしれない、新しい形の「おやぢ」です。しかし、なにしろ、とりあえずCDと遜色のない音で聴くことができるのですから、ここで聴いてしまうともはやCDを買う必要はなくなってしまうかもしれませんね。痛し痒し、といったところですね。
何と言っても超有名曲、この曲の録音といったら巷にあふれかえっています。このレーベルにだって確か他の人の演奏で交響曲全集がすでに揃っていたのでは。ですから、ここであえて再録音を投入したというのは、レーベル全体のクオリティを上げようという意気込みの表れなのでしょうか。確かに、もはや「ガンゼンハウザー」などという得体の知れない指揮者には見切りをつけ、注目株のオールソップに乗り換えて「リセット」を図る方が、断然現実的な道なのかもしれません。
そんな期待を一身に受けた彼女たちは、その期待に充分に応えた演奏を披露してくれています。もはや、この中には鄙びた民族性や田舎臭い叙情性などを当てにしなくても、ストレートにヨーロッパ音楽の伝統によって語ることの出来る手法が確立されていることを感じ取ることが出来るはずです。
そんなある意味ストイックな、楽譜の持つ意味を重視した表現の一端を端的に現しているのは、第1楽章の第2主題の後半のリズムの扱いです。こちらで述べられているように、ほぼ同じメロディを最初にフルート・ソロで演奏したあとでヴァイオリンが模倣する、という形を取っているのですが、ヴァイオリンとフルートではリズムが微妙に異なっています。なにしろ、ここはクリティカル・エディションでやっと整理された形になったもので、それまではてんでいい加減な楽譜が横行していたものですから、リズムの違いなど表現にはなんの影響も及ぼすことはなかったような、些細な差違だったのです。しかし、ここでのオールソップの演奏を聴いてみれば、ここでなぜドヴォルジャークがあえてリズムを変えたのかが、はっきりと理解できることになります。フルートはさりげなく、付点音符ではない平らなリズムでテーマを提示するだけ、ところが、それを受けるヴァイオリンは、この部分の前からすでにルバートをたっぷりかけて思い切り歌い込み、ここの付点音符の意味を明らかにしてくれているのです。
こんな具合に、オールソップが表現の拠り所にしているのは、楽譜が要求していることに尽きています。そして、そこには感傷的な民族臭などは付け入る隙はないことは、最も「民族的」だと思われている第2楽章を聴けば分かります。有名なコール・アングレのソロの部分も、おおらかなテンポでたっぷり歌い込んでいるにもかかわらず、そこからは涙を誘うような安っぽい「民族の息吹」みたいなものはとんと感じることは出来ません。それよりも、そのソロにぴったり寄り沿って、まるで包み込むように一体化している他のパートの見事なアンサンブルにこそ、共感を覚えることを禁じ得ないはずです。ここでオーケストラ全体が醸し出しているのは、まさにドヴォルジャークが楽譜の中に現した、偏狭な民族性などを超えた大きな世界観だったのです。
そのように、あたかも一つの楽器のように軽快に突き進んでいくオーケストラの中にあって、金管セクションのもたつきがちょっと気になってしまいます。ここでもう少しだけタイトなリズムを決めることが出来てさえいれば、オールソップのロジックがより明確に伝わっていたはずなのに。
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by jurassic_oyaji | 2008-07-07 20:24 | オーケストラ | Comments(0)